hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人生はすごく短いと思うのですが、、、

回答数回答 3
有り難し有り難し 44

人生というのは凄く短いものだと僕はおもうのですが、その短い中で自らで考えず、ただ生きる為に日々を送る人についてどうお考えでしょうか。回答宜しくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

放てば手にマキシマム✨「ただ」に堕すれば真の「ただ」に非ず

「ただ」にもピンキリあり。
ただ、いたずらの「ただ」もあれば、
只管打坐の只管(ただ)もあります。
ウルトラ怪獣に「ダダ」という怪獣もいます。(これ関係なし)

ただ、やみくもに生きるということは、食べていくために生きるようなものでキリスト教であっても「人はパン耳のみにて生きるにあらず」と戒められています。(耳じゃねぇよ)
私は学生生活がボンビーでパンの耳をもらって生活していた時期もありました。
ただ食べることの為だけに生きていて、他を利する宗教心のない生き方は、自分の事しかありませんよね。だからと言って、無理に自分もいっぱいいっぱいの中でボランティアボランティアした生活を送っていると無理がたたります。私だって忙しいときニャ🐈回答もできません。
〇本当の意味で「ただ」生きられるようになるとよいでしょう。
本当の只は自由闊達。人助けをしたっていいし、しなくたっていいのです。
お金があってもいいし、なくたってそこそこ平気だったりします。
何か一つに縛られると人間は身動きができなくなるものです。
曹洞宗では「只管打坐」ということがやたらと標榜されるところがありますが、別に道元禅師は只管打坐とばかり言ったわけではないのですが、最近の曹洞宗がしきり本庁がこの教えが便利なのでトリミングしてきた背景があるので只管打坐を標榜しています。
ですが、これも人によっては危険で「ただ(只管)」ということに堕ちてしまうことがあります。
只はただでもただならず真のただにはただもなし。
チョと深い話しますね。
「ただ」ということを握っているうちはまだまだ半可通、チュートハンパなのです。
たとえば、平和ということばに置き換えてみましょう。
昨今のきな臭い中で「平和平和」と叫ばれるのは、真に世が平和ではないからです。
二十年ほど前に「愛だ愛だ」と叫ばれた時代も、愛が不足していたからこそです。
スピリチュアルや新興宗教でもしきりに「愛よ、愛よ♡」と口にされる「愛の宗教」めいた人がおられますが、本当に暖かい家庭や真の愛情関係においては「愛だ愛だ」なんてことは要らないくらいにそれがあふれています。
そこに不足があるからこそ、それが叫ばれることがあるのでしょう。
本当に「ただ」の人には「ただ」も解脱、超越して生き生きとしています。
今あなたが「こうあるべきだ」という握っているものも捨ててみてください。✨

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

人生は長い、しかし一瞬で終わる。

この世の中に無駄なものなど1つもありません。
「ただ」生きている事にもちゃんと意味があります。
生きている事、その事自体がそれだけで素晴らしく有意義な事だからです。
ご飯を食べて、寝て、生きている。
それだけに見えるかもしれないけれど、そこにはたくさんの人と、物との「縁」があり、繋がっている。

セミは1週間の命
人は100年の命
地球は100億の命

それらは全て、仏様の目から見れば一瞬の命。

しかし、その一瞬にこそ意味があるのだよと仏様はお説きになります。

{{count}}
有り難し
おきもち

一般家庭から仏門に入った2児の父です。 妻と2人でお寺をお守りしております。 仏様は全ての人を平等に救う願を立てられて、教えを説かれました。その教えは今を生きる全ての人を救うために、存在するのです。 仏様は全ての親、私もあなたも、みんな仏様の子供なのです。

あなたの言う、自ら考えずただ生きる為に日々を送る人、というのが誰を指しているのかは分かりませんが、誰しも自ら自分なりに考えて生きているでしょうし、誰しも日々精一杯努力して生きているのではないかと思います。
それが何も考えずにただ生きているだけの様に見えてしまう所に何か問題があるような気がします。
人生は短いからこそ、考えることにばかりに囚われず、1日1日を精一杯生きることに専念したいものです。

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

煩悩スッキリコラムまとめ