人生はすごく短いと思うのですが、、、
人生というのは凄く短いものだと僕はおもうのですが、その短い中で自らで考えず、ただ生きる為に日々を送る人についてどうお考えでしょうか。回答宜しくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
放てば手にマキシマム✨「ただ」に堕すれば真の「ただ」に非ず
「ただ」にもピンキリあり。
ただ、いたずらの「ただ」もあれば、
只管打坐の只管(ただ)もあります。
ウルトラ怪獣に「ダダ」という怪獣もいます。(これ関係なし)
ただ、やみくもに生きるということは、食べていくために生きるようなものでキリスト教であっても「人はパン耳のみにて生きるにあらず」と戒められています。(耳じゃねぇよ)
私は学生生活がボンビーでパンの耳をもらって生活していた時期もありました。
ただ食べることの為だけに生きていて、他を利する宗教心のない生き方は、自分の事しかありませんよね。だからと言って、無理に自分もいっぱいいっぱいの中でボランティアボランティアした生活を送っていると無理がたたります。私だって忙しいときニャ🐈回答もできません。
〇本当の意味で「ただ」生きられるようになるとよいでしょう。
本当の只は自由闊達。人助けをしたっていいし、しなくたっていいのです。
お金があってもいいし、なくたってそこそこ平気だったりします。
何か一つに縛られると人間は身動きができなくなるものです。
曹洞宗では「只管打坐」ということがやたらと標榜されるところがありますが、別に道元禅師は只管打坐とばかり言ったわけではないのですが、最近の曹洞宗がしきり本庁がこの教えが便利なのでトリミングしてきた背景があるので只管打坐を標榜しています。
ですが、これも人によっては危険で「ただ(只管)」ということに堕ちてしまうことがあります。
只はただでもただならず真のただにはただもなし。
チョと深い話しますね。
「ただ」ということを握っているうちはまだまだ半可通、チュートハンパなのです。
たとえば、平和ということばに置き換えてみましょう。
昨今のきな臭い中で「平和平和」と叫ばれるのは、真に世が平和ではないからです。
二十年ほど前に「愛だ愛だ」と叫ばれた時代も、愛が不足していたからこそです。
スピリチュアルや新興宗教でもしきりに「愛よ、愛よ♡」と口にされる「愛の宗教」めいた人がおられますが、本当に暖かい家庭や真の愛情関係においては「愛だ愛だ」なんてことは要らないくらいにそれがあふれています。
そこに不足があるからこそ、それが叫ばれることがあるのでしょう。
本当に「ただ」の人には「ただ」も解脱、超越して生き生きとしています。
今あなたが「こうあるべきだ」という握っているものも捨ててみてください。✨
人生は長い、しかし一瞬で終わる。
この世の中に無駄なものなど1つもありません。
「ただ」生きている事にもちゃんと意味があります。
生きている事、その事自体がそれだけで素晴らしく有意義な事だからです。
ご飯を食べて、寝て、生きている。
それだけに見えるかもしれないけれど、そこにはたくさんの人と、物との「縁」があり、繋がっている。
セミは1週間の命
人は100年の命
地球は100億の命
それらは全て、仏様の目から見れば一瞬の命。
しかし、その一瞬にこそ意味があるのだよと仏様はお説きになります。
あなたの言う、自ら考えずただ生きる為に日々を送る人、というのが誰を指しているのかは分かりませんが、誰しも自ら自分なりに考えて生きているでしょうし、誰しも日々精一杯努力して生きているのではないかと思います。
それが何も考えずにただ生きているだけの様に見えてしまう所に何か問題があるような気がします。
人生は短いからこそ、考えることにばかりに囚われず、1日1日を精一杯生きることに専念したいものです。