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生きていたくないです

回答数回答 1
有り難し有り難し 32

自分が生きている意味が全く分かりません。
もう生きていたくないです。

存在価値もない人間が生きてていいのかも分かりません。

無職。ひきこもり。高校に入学してない。勉強が出来ない。人と上手く話せない。短所ばかり。

文章を考えるのも苦手。
自分に全く自信が無いです。

もう全てが嫌です、なんで生きていなきゃいけないのでしょうか…


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたのような人のためにこそ仏教はある

坊さんもある種、無職。
❝住❞職なのでひきこもり。住shock!(゜Д゜;)
学生時代はカンフーにしか興味がありませんでした。ァチョー!👣
先生「丹下君、学校にカンフーシューズを履いてこないでください」
みんな「アハハハハ」みんなが笑ってるぅ~♪
学校の勉強で「役に立った」と感じたものは…ないです。
小説は読破出来たことがありません。私にとって教科書は睡眠導入剤。
いまだに数学の証明できません。わかる人教えてください。私自身の証明のしようがありません。理科の天気の気圧の図?よくわかりません。▶さんかくいのと●まるの半分みたいなの、アレ、何?世界史はウケるカタカナしか覚えてません。
低気圧、高気圧?晴れてるか雨降ってるかぐらいならば見ればわかります。寝起きが悪いので低血圧らしいです。昨日はちょうど高圧洗浄機で玄関前を洗っていました。
✋だから勉強は出来ません。テレビのバラエティでクイズにすらすら答えている人とか見てもうらやましいとか思う人いないんじゃないでしょうか。
むしろ、できない人や面白い回答を出している人の方が、人から共感をいただけたり、人を楽しませているって不思議。
頭が良いとか言われているエリート・政治家も頭良くないから日本はちっともよくならにゃい。
これからはあなたのような方の時代です。
そのために脳内の「箱」をあけましょう。
頭の中にはたくさんの開けられていない「引き出し」「ハコ」があるのです。
あなたはその引き出しを開けていないから、まだ人生が楽しくないのです。
アタマの中には勉強BOXよりももっとイイ引き出しがあります。
それが「自分勉強ボックス」です。仏の名前の数だけあります。
薬師、阿弥陀、観音、モンジュ。
人生、全部自分の勉強です。
アタマがイイと言われる人でも勉強はできても「自分を勉強できている人」はあまりいません。
仏教って平たく言うと「自分のお勉強」なのです。
お寺で自分を勉強してみませんか。
自分が本当にわかった人を「悟りを開いた人」=ブッダ(仏陀)というのです。だから仏教とはブッダ=自分を学んで明らかにした人の教えです。
自分を学べば自分が幸せになる方法が簡単にわかるのです。
自分を学べば死にたくなる理由も悲しくなる理由も、すくわれる方法もわかる。
馬鹿の私がそれを証明しています。だから大丈夫。困ったらいつでもどうぞ。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様

回答頂きありがとうございます。
なんか少し、勇気を持てました笑

«住»職なのでひきもこり。住shock!とても面白いです笑笑

私は、アニメ 漫画 が好きで、よく見たり読んだりしています。絵も描きます。親達も理解してくれています。
学校に通っていた時は、ほぼ無言無表情だったので、今の友達しか知りません。笑

こんなに多く教えて貰ったのに理解出来ていない所もありますが、なんとなく分かる気がします。

クイズ番組で、お笑い芸人のカズレーザーさんが沢山答えているのを見ると、わぁ 凄いなぁ…。と、とても思います笑

「自分を学ぶ」とは、考えた事がありませんでした。
ちょっと怖い気もしますが、1度は深く考えてみたいです。

この私の文章もままならないですが、お答え頂き本当にありがとうございました。

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