悪口
わたしは人から言われた一言をずっと気にしてしまいます。
ある人に相談したところ無関心になればいいと教わりました、
果たして無関心などなれるのでしょうか、
また無関心とはどういうことなのでしょう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
悪言は功徳
「悪言はこれ功徳なりと観ずれば、即ちこれわが善知識となる」証道歌
お寺の子供は悪口にまみれて育ちます。
「お寺のくせに」
「人が死んだことでご飯を食べていける」
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
まぁ、慣れました。
悪口を言うということの真意は、自分が優位な立場に立ちたい人間のもつ、哀しい一面。
浅ましさなのです。
悪口自体には、毒はありません。
そこに自分が毒性を見出すと毒になります。
言葉って、本当に本当は意味がないのです。
そこに、こちら側が意味合いを強く持たせたり、添え物、カラーリング、言葉へのフィーリングを注ぎ込むことで、言葉に意味が発生する。
その言葉の意味が発生するのは、それも本人の中なのです。
「あいつは、バカだねえ」
という言葉ひとつにしても、音として感受した時点では、意味はない。
その直後に、セカンドで意味を付けた時に、ひとによってフィーリングの濃度が異なるのです。
だから、あなたはその言葉で傷つく12秒前に戻って、その言葉にあなたが意味を添える前にもどればいい。あなたがその言葉にネガティブな悪い意味を添える前を見出せばいい。
仮に、バカだのアホだの死ねだのたんげだの言われても、そこに「わたくし」を混ぜ込まない。
そうすると、言葉はただの表記。ただの音。ただの情報になる。
意味が添えられる前になる。
どんな人権擁護も、差別用語も意味の無い言葉になる。
それが、仏法、仏道から観た世界です。
そこに目覚めるとあなたは救われる。
言葉に、私的な角度で添えられたシール、意味がはがれるからです。
私は、そうすることで一切の悪言を機能させていません。
プライドの煩悩
人に言われたことで自分のプライド、自分の評価が侵害されたという感じがしたら、気になってしまいますね。
プライドの煩悩は誰にでもあります。
他人と自分を比べたり、過去や未来の自分を今の自分と比べたり、他人の評価と自分を比べたり、理想の自分と比べたり、とにかく自分の価値を何かと比べて確認したい、そして、自分はすばらしいと思いたいのです。
それは、悩み苦しみの原因になる煩悩です。
しかし、プライドの煩悩は普通は誰にでもあります。
「あ、プライドの煩悩が働いてるんだな」と気付くだけでマシになるかも。