hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

最終面接に落ちて人生の目標を失いそうです。

回答数回答 2
有り難し有り難し 38

長文になりすみません。
先日最終面接に落ちました。もう自分は今年度、論語で言うところの而立を迎えます。而立を迎える年なのに未だにフリーターです。情けないです。
私は死ぬべきなのでしょうか。この死は身体的な意味だけではなく精神的な事も含まれます。自分は死にたいではなく、死ぬべきだと自覚しております。
自分には尊敬する師がいます。高校時代の先生になり私の立場は元教え子にあたります。私の夢は師の弟子になることです。
私が勝手に尊敬しているだけで、先生は自分のことを忘れているかもしれません。
自分は浪人しており師は私の目標を応援してくれました。その目標とする大学に合格したら弟子入り志願をする予定でした、が、第一志望の大学に落ち、師を裏切りました。
が、弟子入りの夢が諦められず、私が卒業した大学からは無謀ですが、己が目標とする企業に受かったら師に正式に弟子入りをしようと考えました。
大学時代から数えると7年、卒業後からは5年就活(転職活動?)を続けてきました。ですが未だ目標とする企業(業界)の内定を得ることができません。
さて本題の死ぬべきの意味に戻ります。自分にとって夢を諦めることは己の魂の死を意味します。私は自分の事を死ぬべきだと考えているだけで死にたいとは考えてないです。できることなら足掻きたいです。
やっと巡り会えた企業の最終面接に落ちた今、私の夢はさらに遠ざかりました。
世間では私の年齢はもう華々しく社会で活躍する年代です。かたや自分は何百社の企業からお前はいらないと言われ続けた落ちこぼれの人間です。
こんな情けない姿を師に見られたくはないです。かといって、目標とする業界や会社を変えたくはないのです。
自分は先生から妥協しないことの大切さを学びました。できることなら己が立てた目標は変えず、師からの教えを守りたいという意志があります。
ですが、その目標とする業界企業から内定を得ることができません。過去に一度、非正規でその目標とする業界の会社から内定を得たのですが、親から反対され辞退しました。(土下座をし懇願したのですが、親は認めませんでした)
故にアルバイト(準契約社員)からその業界の企業を目指すという手段も絶たれています。
今,志望業界を変えれば、まだ正社員として働くことは間に合うかもしれません。が諦めたくないのです。自分は今後どう生きていくべきでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

マイストーリーなしに生きる

まず、冷静にこう考えましょう。
人間誰でも「こんなはずじゃなかった」という自分のあらかじめストーリーに支配されてしまうと、がっかり感が増すものです。
「こんなはずじゃなかった」とするならば、どんなはずだったのでしょうか。
本当は素晴らしいサクセスストーリーが待っているはずだった。
でも、それらは、あくまでも事前の期待や、想定範囲内ということで、頭の中で考えられた夢物語、マイストーリーなのです。
マイストーリーと、現実の実際とはまるで別物です。
もう一度申し上げます。
自分の思い描いていること、自分の思い描いてきた理想ビジョンと、今日のたった今の現実とはまるで別物であるということをよく弁えないといけません。
ただ、あなたのそのサクセスストーリーが、その場では現れなかったというだけで、第二、第三の人生のサクセスストーリーは、すでに始まっているのです。
ここは、思い切って第一の得られなかったサクセスストーリーを捨ててしまうことです。
次なる機会、第二、第三のサクセスストーリーに向けて軌道修正いたしましょう。
財布を失ったとします。
財布が失われた。
その失われたことを嘆くよりも、そこで学びを獲得することです。
損失感、喪失感に支配されたままでいるから前に進まないのです。
天からたくさんの恵みが落ちてきています。
一つをとりそこなっただけです。
今も、たくさんの恵みが落ちてきています。
その拾い損ねたものを手放すことで次なる授かりが手に入るのです。
「今欲しがっているもの」
それを欲しがる手、掴もうとする握っている手を開くことで、新しいものが手に入るのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

夢を諦めることがあなたにとって魂の死に値するなら、諦めなければいいと思います。
お釈迦様は言いました。
「生きることとは努力することである。
努力しない人は既に死んでいるのだ。」
命が続く限り努力しましょう。
ただ、自己分析も必要ですよ。
自分に何が足りないのか、採用される人と自分と何が違うのか、しっかり分析しながら、自分磨きをしながら、努力しましょう。
あなたの夢が叶うことを祈っています。
なお、先生には今努力している事を今報告してはどうかと思いますよ。いいアドバイスを貰えるかもしれないですしね。

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

質問者からのお礼

ありがとうございます。一般的なQ&Aサイトに質問するとじゃあ死ねと書き込まれて本当に打ちのめされたらどうしようと考えてました。ここに相談して良かったです。自分なんぞより若く優秀な人が自殺したというニュースを聞くと自分が生きてていいのか…生きているのが罪ではないか、己の夢は間違いなのだろうかと悶々としておりました。
世間では今すぐにフリーターをやめて、地道な所で正社員の仕事を探せというのが一般的だと思うのですが、己の命が燃え尽きるまで努力を続けてその結果自分にフリーターという道しかなければ、夢を追った代償としてその道を受け入れる覚悟ができました。
今は落ちてしまった分析をして、アウトローではありますが前に進みたいと思います。

煩悩スッキリコラムまとめ