世話になった人の死期にその人からの小遣いについて考えてしまう
近所に住む高齢の女性の寿命について考えると、いつも彼女から貰っている「小遣い」の存在が頭に浮かんでしまいます。
近所に80歳前後の高齢の女性が住んでいます。
私が小さい頃から世話になり、一人で留守が出来ないときは家に上げてもらったり、運動会に来てもらったり、クリスマスなどは私の家で一緒に食事をする、家族のような存在です。
そして自分にとって大きいのが、「小遣い」です。
誕生日、年末年始、こどもの日などに決まって手作りの小さい封筒に500円玉を数枚入れて私含む兄妹全員ににくれます。
最近では電話の調子がおかしいという話を聞いて、家で配線を見ただけでもらったこともありました。
小さい頃は大抵親に預かられていましたが、外食が増えた今ではその臨時収入に大いに助けられています。
その女性は私が物心ついたころから「おばあちゃん」だったのですが、最近加齢を感じさせられることが多くなりました。
上記の電話の件もそうですが、「テレビか電話からずっと音がする」と言い、電源を全て抜いた挙句テレビを買い換えまでしたり、それでも納得が行かず、「家に人がいるかもしれない」と言い、私の祖母と遠方に住む彼女の妹が落ち着かせたようです。
その後、補聴器を購入したり、デイケアに通うようになったようです。
あまり考えたくはありませんが、年齢を考えるとあと10年前後で天寿を全うするでしょう。最近の彼女と触れ合うなかで、常に彼女の死のことが自分の頭につきまといます。
その時必ず彼女から貰っている「小遣い」のことが頭に浮かぶのです。
常に微笑んでいて、優しい彼女に長生きしてほしいと思います。
しかしその願いは自分がより長く小遣いをもらうためでは無いかと言う疑念が浮かびます。何度も頭の中から消そうとしますが、最近では出かける際に彼女の家の玄関先で顔を見るたびに「死」「小遣い」というワードが浮かぶようになりました。
大好きな人の死が近いと悟ってもすぐ金への執着が湧く自分と、またそれを振り払おうとする行為は偽善ではないかという疑念に、彼女の顔を見るたびに苛まれるのです。
まずこの振り払おうとする行為が正しいのか、偽善なのか、そしてもし正しいとすれば、どう私の中で消化させれば良いか、ご教授ください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人からいただくものの 込められた想いを、大切にしましょう。
そっか〜 お小遣いをくださる、近所の おばあちゃまなのね。
財に執着しても仕方ない、財で得る満足は自分を見失わせる、そのことをちゃんと知っておられるんじゃないかしら。お金の使い方は、人それぞれ。持つ人によって、お金の価値は変わります。
あなたに小遣いとして渡される想いって、どんなだろうねぇ〜。
あなたは、なんだか罪悪感というか、巻き上げてるみたいな気持ちになる?
執着は誰にでもあります。ありがとうという気持ちに、申し訳ないなぁという気持ち、でも助かるなぁという気持ちに、あの小遣いがあればなあという心。揺らぎますよね〜。
アテにしてはいけないよ、あの人は お金の人になってしまうと、長生きしても もうお金がない人としか見れなくなる。そんな お付き合いになってしまうからね。でも、あなたに託す小遣いだろうと思います。感謝しながら、大事に使ったらいいんじゃないかしら。活かしてこそだからね。
でも、あなたは、優しい子だね。
人からいただくものに、感謝と謙遜や遠慮、いいんだろうか〜って悩むことは、大切なことだもの。込められた想いを、大事にしましょうね◎
取
では、お小遣いを別のものに置き換えてみたらどうなるでしょうか。例えばキュウリのキューちゃん漬け。
>誕生日、年末年始、こどもの日などに決まって手作りのキューちゃんをラップに小分けして私含む兄妹全員ににくれます。
そしたらアラ不思議、なんだかほっこりする思い出になり、より長くキューちゃん貰うために頭に浮かんでいる感じはなくなるでしょう。より長く欲しいと感じたとしても、それはそれでどことなくほっこりする雰囲気ではないでしょうか?
なぜそうなるか?お金に対して欲や執着の象徴みたいなレッテル漬けをするからです
実際はお小遣いであってもキューちゃんであっても、子供思いのお婆ちゃんが優しくプレゼントしてくれただけでしょう。実際、ことあるごとに『ご好意をくれてた』わけですから、それが『思い出として』頭に浮かんだとて何も悪いことではありませんよ。むしろそれだけの『恒例行事』が思い出されない方が寂しいように感じます。
小遣いは小遣い。それだけで良いんです。その小遣いに「執着ではないのか」とか「偽善ではないのか」とか付箋に書いてペタペタ貼り付けていくと、小遣いが小遣いでなくなり、苦の塊になってしまいます。それはもはや『全くの別物』です。
そうして頭の中でストーリーを進展させてる苦の原因を仏教では「取」(しゅ)といい、煩悩の1つに数えます。そう、煩悩です。
小遣いは小遣い。それだけ。振り払う必要はありません。ただ小遣いの思い出として受け止め、お金を悪者にせず、自分自身も悪者にしない。ただの小遣い。それで良いんです。
ただ、そのお婆ちゃんの優しさにちょっぴりお返しするのも良いかもしれませんね。
お婆ちゃんに直接お返しするのも有り難し、あるいは持ち回りとしてお婆ちゃんと同じように、次の子供たちにプレゼントすることをもってお返しとさせてもらうも有り難し。
苦の方面に発展させちゃマズいですけど、慈悲方面には発展させちゃいましょう。その行いによって、自分自身を喜ぶことができるでしょう。
それはお布施です
moroさん、はじめまして。質問を拝読いたしました。
moroさんは小さい頃から世話になり、一人で留守が出来ないときは家に上げてもらったり、運動会に来てもらったり、クリスマスなどは私の家で一緒に食事をする、家族のような近所の女性がいるのですね。そして、何かにつけて近所の女性から小遣いをもらうことが気になっているのですね。
近所の高齢女性からすると、moroさんに渡している小遣いは「お布施」の意味を持っているのではないでしょうか。高齢女性がmoroさんに何かをしてもらったお礼に渡しているものですが、moroさんに見返りを求めず行っているお布施(財施:ざいせ)だと思います。
moroさんには現金をもらうという意識ではなく、高齢女性のお布施の心を受け取ってもらいたいものです。