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偶然とは思えない事故

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これはなにかの暗示ですか?
3年前、私は交通事故で頚椎捻挫をして後遺症で1年苦しみました。
その数ヶ月後、親戚が脊髄損傷で寝たきり。
そして今年。又しても後ろから追突されて頚椎捻挫。頚椎の一部分がヘルニアになりかけてると言われました。
これだけならたまたまと思えるのですが、なんと事故の数日前直属の上司が脊髄損傷で寝たきりに。その箇所が私がヘルニアを指摘された箇所がでした。
これはなにかの暗示ですか?ちなみに両方厄年です。
もしかして私も脊髄損傷になるのか?と考えると怖くて怖くて、、、
このような話はよくあるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

全ての出来事は単独、単発、独立事項。

悪いことが続いてしまうと、これからも続くのではないかと心が折れてしまうものです。
ですが、ごあんしんください。
どんな痛々しい出来事も、そこでちゃんと完結しているものです。
私は昔、新狭山という駅の近くで事故をおこししばらく凹んでおりましたが、
「交通事故はぶつかった瞬間だけだ」と師匠から言われて、目が覚めた経験があります。
ああ、今もその事故・不運が続いているかのように感じていたが、自分がその時のことを今という時間を使って今の一念という「念=今+心」で過去のことを何度もリプレイ🔁リピートして、
今という今日のこの真新しいフレッシュな時間を台無しにしていた、と気づけたのです。
思いというものは、思いでありながら、思いもよらぬところに向かうものです。
だからこそ、上手にコントロールしなければいけません。
実際に起こっていないことは起こっていないのです。
過去の不運は不運であっても、今日何を思うかによってその不運は終わり、今日、悪く思えばその不運は不幸という精神作用となって、今日のフレッシュな一日を汚すのです。
今日はもう真新しい今日です。
それぞれはそれぞれの単独の出来事なのです。
心を不幸の雲で覆わせないように悪く関連付けないようにいたしましょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

こんにちは。

 ヘルニアになった場所について、私は専門家ではないので、断言はできませんが、ちょっとネットで調べてみますと、背骨の中にも「ヘルニアになりやすい場所」というのがあるようです。つまり、多くの人が同じ場所がヘルニアになっていると考えられます。

 厄年は、加齢により、無理がきかなくなる年齢の目安とされます。年齢上、体調の曲がり角って事です。別に厄年だから呪いがかかるわけではありません。ヘルニアばかりでなく、厄年の頃には、様々な病気やケガに注意です。あまり無理をなさらないように。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

偶然はありません。でも・・・

重ねての事故、心折れますよね。
さて、言われるように「偶然とは思えない事故」とあるように、言えることは、この世には偶然はありまえん。すべて必然の事です。
それぞれに原因があり結果がある。ということで、今回の一連の出来事も、その流れに一つでしょう。たしかに、似たようなことなので気になってしまいますが、では、どうしたら止めれたの?となると、まして他人の事です、どうすることもできません。
起きたことに対して、どう反応、行動するかが重要で、起きてしまったことを悔やむより気づきがあればいいと思います。
何事も関連づけると、そのように思えますが、もう少し視野を広げれ、見方も変わるかもしれませんね。

厄年については、諸説ありそれぞれを並べていくと絶えず厄年となると聞いたことがあります。ゆえに厄年だからというより、年齢を重ねれば誰しも体力も落ちます。立場や責任も変わります。ゆえに油断せず注意するようにということでしょう。
まずは、お身体を労わりください。

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日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにもにある”と発願し、法筵寺を新寺建立。住職として41年になります。どこまで、その思いを達成しているか分かりませんが、少しでもお釈迦様、日蓮聖人の教えに触れて頂けたら思います。 FB https://www.facebook.com/kaisho.suzuki 法筵寺FB https://www.facebook.com/houenji/ 日蓮宗ポータブルサイト内 https://temple.nichiren.or.jp/3031069-houenji/

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