生きる目的がわからない
はじめまして。
自分がなぜ生まれたのかわかりません。
今は大学1年生なのですが、特に将来どういった仕事がしたい、とか、どうやって生きたい、結婚したい、などの希望がないので、このままあと何十年も時間が流れるのを待つだけなのかと思うとうんざりします。
それでも生きていくためには、お金を稼がないといけないし、その為に定職につくには大学を出た方が良いだろうし、と思って大学に通っていますが、特に興味のあることや学びたいこともないので、どんな講義でも退屈で、なぜこんなことのために年に100万とか親のお金を払ってもらってるのか、と思うと、自分が無駄なことしかしていない気がして生きる意味がわからなくなってしまいます。
だからといって、自分が客観的にみて不幸な環境で育ってきたわけではありません。両親は仲も良く、以前やりたいことがあった時も十分に応援してくれていました。自分は全国大会で毎回入賞できる特技もあります。人よりも多少頭が回ると思うし、昔から特に試験勉強などをしなくても、中の上ぐらいの成績を保てていますし、大抵のことは特に努力しなくても、全体的にそれなりにできてきました。
でもだからこそなのか、夢中になれることなどが見つからないので生きる目的がわからないのです。どこに向かって行っているのかわからないのです。
そもそもの性格が面倒くさがりなので、「生きてて良かったことや楽しいこともあったでしょ?」と言われても、「楽しいこと」というプラスの要素があるということよりも、「嫌なこと」というマイナスの要素があることが嫌な気持ちが強いのです。
身体的な不調(虫歯や腰痛など程度ですが)があると、それをわざわざ治療してまで生きたいのか?と思いますし、最近はそんなに食欲もなくて、おいしいとなかなか思えないので、そんなに美味しくないようなもの食べてまで生きたいのか?と思います。嫌なことがあったりしんどい思いをして無理をしても、そこまでして生きたいの
か?それでも生きる必要性があるのか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
意味からの解放
そこまでして生きたいの か?それでも生きる必要性があるのか?
を考えに考え抜いて、必要がないという結論に達したら生きるのやめます?
うーん、そういうわけにもいかないんですよね。
私たちはおそらく「私が生きる意味」を問う時、「私」がまずいることを前提として、その「私」が「なぜ生きる」「いかに生きる」「どう生きる」と「生きる」方を問うていくと思うんですが、仏教ではまず「私とは何か」というように「私」の方を問うていくものかもしれません。
私たちは私の生に意味や理由や目的を期待します。何か大いなるものがそこにあって欲しいと。
でも仏教的に言うと「そんなものない」という風になるんだと思います。
意味や理由や目的があって私たちのいのちが誰かに作られたわけではないんですね。そうでなくて私がここにいるのは「私が存在する縁(条件)がととのっているから」です。
父母もその縁の一つに過ぎません。父母がたとえ「後継ぎのため」なんて目的をもって子を設けても子はその目的にとらわれる必要もありません。
私たちは数限りない縁がととのって今・ここに存在しています。その縁以外に「これが私だ」なんて言える実体はどこにもありません。
私の身体も思い通りになりません、心も思い通りになりません。だから「それらが私だ」とは言えません。私はたまたま縁がととのってここに「私として生かされている」のです。
つまり、出てきた、生まれて来たという「事実」が先なんですね。「意味」は後付け。
だから私たちは意味を問うのではないのです。問われているのです。「あんた生まれちゃったけどどう生きる?」という様に。
あとは自由です。もちろん思い通りにはいきません。でもトライするのは自由です。何したっていいんです。
「それなら生まれてたくなどなかった」と嘆くも自由、「それならいっちょ何か探してやるか」と振りかかるご縁に主体的な態度を示すも自由。
人生やいのちの意味を問う問いは答えが見つかることでなく、意味から解放されることである意味発展的解消を遂げるのかもしれません。
思考の世界から事実の世界(今・ここのご縁を引き受けた世界)に生きる腹がすわった時、人生というものはそんなに悪いものではないと思える気がします。
もちろん厳しいですけどね。でもその中で何かにななさんが出会えることを願っています。
満たされていると厭になる
むか〜しむかし、ある徳川三代将軍がお坊さんに言いました。「最近なにを食べても味がしないのじゃ。何かないだろうか。」
お坊さんは言います。「ございますよ。それでは明日午前10時ごろお寺に来て下さい。ただし当日は我がままを言ったり、食事会が終わる前に帰ったりなさらないとお約束くださいませ。」将軍は喜んで約束しました。
翌日、将軍は10時にお寺に行きました。ところが3時のおやつの時間になってもまだ昼ご飯が出てこない。
もう空腹で耐えられなくなった頃、ようやく昼食のお膳が出てきました。お膳には白飯の湯漬けと小皿に黄色いものが2切ればかり。(なんじゃこの粗末な飯は。もう戦時中じゃねぇんだぞ。)それでも空腹を耐えかねた将軍はカツカツとたいらげます。「うむ、うましである。おかわり!」
そうしてお腹が満たされたころ、将軍はお坊さんに問いました。「この黄色い野菜はえらく美味であるの。これはなんじゃ?」「これはただの大根のぬか漬けです。上様はいつも厳選に厳選された山野海の珍味を召し上がり、あまりに舌が肥えすぎていたのです。以後、お食事は空腹になるのを待って召し上がるのがよろしいでしょう。」
このお坊さんこそ井上雄彦氏のバガボンドに登場し、紫衣事件で日本史の教科書にも載る沢庵和尚でございます。
参考 http://sukyoji.com/takuan_tukemono/
さて、何が言いたいか?あなたは人生そのものにおいて舌が肥えているのでしょう。
日本人は大学まで出て英語もロクに話せない人がワンサカいます(私も他人のこと言えません)が、東南アジアの市場に行くとあ小学校も卒業したかアヤシイようなオッちゃんが5ヶ国語くらいペラペラしゃべります。なぜか?別に外国語なんか興味もないけど、覚えれば覚えただけ商売に使えて、食い扶持になるから。
んで、商売が将来の夢だったから商売しているのではなく、他に食っていく選択肢が無かったから商売してるだけ。でも、5ヶ国語も覚えて観光客とフレンドリーに喋りながら金儲けしてるとだんだん楽しくなってきちゃった。
生き甲斐って、そうやって『結果的に』生じてくるものです。考えたって、どツボにハマるだけです。
バイトすると良いですよ。半端なバイトではなく人材育成に熱心な企業のガチバイトを。実践の現場に身を置けばハングリーさを味わえるでしょう。
生きる目的や意味や価値というものも空、縁起なるもの
なな様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
生きる目的や意味や価値というものは、どうしても何か「これだ」と言える実体的なものがあるのじゃないかと、思ってしまうところではありますが、まあ、そんな実体的なものは無い(仏教的には「空」)というところとなります。
では、何もないのかと言えば、何もないというものではありません。
あくまでも、全てのあり得ているモノ・コトは、「縁起」として成り立っているとして説明することとなります。
「縁起」とは、「他に縁って起こっている」、わかりやすくには、「因縁生起」として、因縁、原因と条件によって生じ起こっているというものとなります。
生きる目的や意味や価値というものも、例外ではありません。善き因縁に依れば、善き結果となるということで、善き因縁を調えることによって、善いものを見い出し得るものとなり得ます。
もちろん、その善い、悪いという判断は、世間的なものもありますが、できれば、仏教的な判断における善い因縁に努めることがお薦めとなります。
是非、これを機縁として、仏教を学び修して頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様ありがとうございます。なんとか生きる気が少し湧きました。