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今の自分が嫌だけど居心地が良くて改善できない

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初めまして。
お坊さんに話を聞いていただいて新たな視点から向き合いたいと思い質問させていただきます。

私は今大学2年生です。
もともと友達は多い方で楽しく過ごしていたのですが、色々あって高校からいわゆるコミュ障になりなかなか友達を作ることが出来なくなりました。

卒業し、大学は知ってる人は居ないけどなんとかやってみよう!昔は社交的だったし!と頑張ろうとしたのですが高校より友達が出来ず、さらに実は友達を必要と思っていないことに気づき、また今までの友達が充実した大学生活を送っていると聞いて自分は本当にダメなんだなと思い知りました。
友達は欲しいけど必死になって作ろうとするのも疲れるし中高の友達が最高なんだからそれでいいんじゃないか?と思うようになりましたがやっぱり目先の寂しさにすこしモヤモヤしていました。

とりあえず2年は何とかしてみようと部活に入ってみました。仲良くできそうだなと思ったのですがやはりコミュニケーションが苦手&面倒臭がりな性格で行くのが苦痛になってしまいました。
夏休みの活動もなんだかんだ理由を付けて行きませんでした。

来月には学祭がありますがそれも趣味のイベント日程と被っておりスグに一日だけ休もうと即決してしまう思考にへこみました。優先順位は変わらないのでどう理由をつけて休むか考えてしまっています。
部活の同級生はとてもいい人で休む連絡をしてもまずこちらを心配してくれます。その気遣いが凄いなと尊敬すると同時に嘘をついて休んでいるのに、という罪悪感、それから別に親しくないから嘘が判断は完全には出来ないだろうという気持ちが入り交じります。

長く書いてしまいましたが、どんどん自分がダメな人間になっていて直したいけど本気で直す気はないのかもしれないと、またダメな人間なんだというループに陥っています。
私はどうしたらいいんでしょうか?自分で悩んでしっかりしろと考えても意志が弱いんだから無理だと理由をつけて諦めてしまっています。
なにか違う方向から考えれば解決策はあるでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それでもまだ「アタマ」を相手にしていることの自覚を

実際に今から外に出てみましょう。
「誰がやるかっちゅーの」と思うかと思うのですが、損はさせません。
後ででもいいので、実際に外に出てみるとそこは自分が思っていた天気や景色ではなかった、ということを実感するはずです。やってみてね。
同じように、人間って何をやるにも行動するにも、その行動する直前って、必ず妖怪やモンスターのようなものが行く手を阻むのです。これをチューチョとかターメライといいます。中ボスかラスボスクラスです。
そのモンスターの正体は全部自分の思いであるということを「混同無しで」見破らないと本当の意味でそのモンスターを倒したことにはならないのです。
混同無しとは、人様のせいや外のせいにしないということ。
ためらいが生じたり躊躇していること、その思いそのものに向き合って、その3センチの壁(結構低いな)を乗り越えればbaby楽ショーなのです。
その壁を越えたときはもう自分にうっとりするでしょう。
何かをしようと志した人間が縛られるものがあるとすれば全てインナーしかありません。
そのインナー・モンスターの正体が自己の想念の分身👿であることを見抜かなければあなたは一生涯、自分の思いに振り回されながら、恐れとともに生きていくことになってしまうからこそ、仏教というものは自己の想念に正しく向き合って、自分が自分の想念に騙されなくなって(長げぇー)、むしろ自分の想念、妄想、知識、分別を泥を転じて肥やしとするがごとく、妄想ストーリーでアナ雪作っちゃった、ディズニーで当たって凄いことになっちゃったオホホホ、それ以来、アナ、左団扇でガッポガッポなのよ💰お油田、あげるわ、持っておいき、オホホホ、少しも働いてないわ♪くらいになれるのです。(※人と状況によって効果は様々です)
自分の妄想を妄想や悪いものではなく観自在力でより良いものに転化、転生、てなづけちゃうのです。すると自分や自分の思いって活用次第でスンゲーことになるのです。この自己とは地蔵、宝蔵、虚空蔵、正法眼蔵というお蔵です。あなたはお蔵にお宝が眠っているのに、そのお蔵の引き出しを引き出せないだけなのです。お釈迦様とは仏教界の最長老様ですから、その教えに触れてあなたの眠っている才能を引き出してもらうとよいでしょう。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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