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因果応報、自分の行いで運勢が下がる事はありますか?

回答数回答 1
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初めまして。

最近、人間関係、日常生活が上手くいかず、
どうしたら立て直せるかと考えています。

運勢が落ちたきっかけは不倫です。
現在は相手の方が離婚され、いわゆる略奪愛を続けています。

仕事の不手際で職場の信頼を無くしたり、
人間関係がうまくいかなかったり、
パスポートを無くしたり…。

全て自分の不注意など行動に原因があるのですが、
上手く行動したいけれど出来ない自分がいます。
昔はもっと明るくて、楽しい人間だと思っていたのに、
最近運勢が落ちているなぁと感じています。

略奪愛の様な悪い事を続けているから、
運勢が落ちているのでしょうか。
これは因果応報というものなのでしょうか。

アドバイスいただければ嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

下がっているのは運勢ではなく人間性

自分のことしか見えていないということこそ、最悪の運気です。
運とはことの運び。自己の運び。ものの運ばれ。
運勢なんぞという不確かなものがこの世にあるのではなく、すべて原因と縁と結果。
あなたの思っているような「運勢」なんぞ、どこにもありゃしません。
自分がやったことや、やってきたことが、自分の心に影響していて、自分を責めたり、後ろめたく思っていたり、悪いことをしたのに、押し殺そうとする無理がたたって、体や心のあちこちに支障がでることをこそ、本当の「バチ」というのです。
あなたはバチアタリなことをしたと自分でよくわかっておいででしょう。
ですが、まだまだ、向き合いが足りないから自分のことでありながら遠くの人のことにしているように感じます。
だから、その影響が心身に現れて、当然あなたの主観では「運気が下がっている」というような感想を持つのでしょう。自分に向き合わずに、本質から逃げていれば、当然「下がっている感」は生ずるでしょう。
あとは、自分でどう「すべき」かをよく考えて、このままの人間性ではますます人生が暗くなる一方であることは、あなた自身が一番わかっておられるはずです。
あなた自身の人間性を高める為に、エゴを離れて、詫びるべきを詫び、つとめるべきをつとめ、話すべきを話し、なすべきことをなすのみです。
悪いことをして、それを正当化しようとしている心理があなたの中に働いているから、あなたの本心に嘘をついてしまっている状態が続いている。
このままですと、だんだん心が止みますから、一度戻るべきところに戻るか、話し合うべきことを話し合って、進むべき方向へ向かってすすみませんと、人間の嘘で自分を傷つけることになりましょう。おだいじに。
この世の中に宗教があるのは、人間が人間の好き勝手をやり続ければ、かならず誰かが病むようにできているからです。
人間でありながら、人間性の向上無しに、自分のことばかりにしか目が向かないということがあなたの苦しみの一番の原因ではないでしょうか。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答、本当にありがとうございます。
詫びるべきを詫び、
務めるべきを務め、
なすべき事をなす、
とても心に刺さりました。

自分のしたことと向き合い、
正しい道を進めるよう、償っていきたいと思います。

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