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母の闘病生活を明るく支えたい

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私の母はガンで10年以上闘病を続けてきました。手術、抗ガン剤いろいろ耐えてきましたが、今後は治療が受けられなくなりました。緩和治療になり病院もかわることになりました。医師や看護師からの説明にも同行し、父親も一緒に支えてきましたが、あまりにも希望がなく母も私も落ち込んでしまっています。そんなとき、母は家族のためにいつも自分を犠牲にして頑張ってくれていたのに私はわがままばかり…病気で苦しむのは自分なのではないか。とかこの世を生き抜くべきだったのは自分ではなく流産した兄弟だったのではないかとかと考えてしまいます。少しでも明るく母と過ごせるようになりたいと思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

病気ばかり見るのではなく、お母さんの人生を見届けて。。

おはようございます。

キツイ言い方ですが、病気であろうがなかろうが、
人の死ぬ確率は100%

だからこそ、
闘病生活だけが母の人生だった。。
にならないよう、闘病前の生き様も大切に扱っていただけることを強く願います。
あと、流産した子と比較することを、お母さんは望んでないと思います。
流産させてしまった罪悪感を持つ親としては、辛い言葉です。

誰かと自分を比較することが、今一番すべきことではないはずです。
ご両親を大切に。

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hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

あなたのお母さんは「ガン」でしかないわけではないでしょう

紙には裏表があります。裏ばっかりみないことです。
ハコは6面体。地に着いた面ばっかりみないことです。
ペットはふんをします。ふんばっかりみないことです。
ネコは引っかきます。爪ばっかりみないことです。
犬は噛みます。吠えます。シッポ振ってることも見ることです。
ロウソクは火が付きます。熱いです、やけどします。火事になったら燃えちゃいます。
暖かい距離感を保つことです。
「明るい」所があります。
人間は、悪いとこだけでしょうか?

「あなたのお母さんは、❝ガン❞でしょうか?」
「…いいえ、私が見ていたのが、ガンというたった一ヶ所だけを見てしまっていました」と言ってほしいものです。そういう別の視線を持っていただきたいと思います。
「明るく」とは、そういう視点を持つことからです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。少し厳しいご意見もありましたが確かにそうです。いかに自分の視野が狭くなっていたのかを考えました。私が母を支えていかなければいけないのに実家に帰ると母は私の好きなメニューを作って待っていてくれます。体調のいいときには一緒にお花を見に出かけたり、買い物やドライブにも行きます。11月に入り、通院も寒くて辛いと思いますが仕事の都合がつく限りは付き添おうと思っています。ときには気分転換をしながら前向きに支えていこうと決めました。本当にお忙しい中、貴重なご意見ありがとうございました。

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