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今までの自分が許せない!

回答数回答 3
有り難し有り難し 19

離婚して8年経ちます。

原因は私のワガママで 子供に父親がいない生活を送らせることになりました。

3人いるのですが 子供を養っていかないといけないことは分かってますが 仕事が長続きしなくて 自分を甘やかしてしまいます。

私が原因の離婚なので 養育費も慰謝料もなければ 誰からの協力もなく ほんとに私だけの収入で生活しなきゃいけないのです。

それ知ってるのに 仕事を転々としてしまい 今の仕事は5時間のパートで 毎月カツカツです。

結局 怠け癖がとれないのか…
これからもお金がかかるし お小遣いもあげたいのに あげれない状態で。

私の気持ち次第なのはわかってますが 行動に移しても 最初だけで…

逃げてばかりの自分が許せないんです。

どうか お叱りのお言葉をお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

社会的な問題

ひとり親世帯の貧困の問題は、日本全体のしくみの問題でもあります。
もしかしたら、あなたが根性を出したとしても、たいして状況が変わらない恐れもあります。
少なくともお仕事はされているわけですし。
もしも生活保護を受けていなくて、受けられるほど貧困な状況であるなら、福祉事務所に相談だけでもしてみてはどうでしょうか?

怠け癖は、怠ければ怠けるほど怠けたくなる可能性があります。
今・この一瞬を頑張ることの積み重ねが、一番かも。
あとは、仕事の中に何か楽しみをみつけて仕事に行きたくなるようにするとか、嫌なことがあってもクヨクヨ思い出さないとかは有効ではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

旦那さんに詫びる

いつの時代も自分を苦しめていたのは、自分の我であったはずでしょう。
そこにあなたはようやく気づけたのです。
自分の我にようやく向き合えたのです。
これより以降の話は聴くだけではなく、意見を採用し、実行をしてください。
あなたは自分のわがままあや我で苦しんだ。
自分の自我。我。
我といってもピンとこないでしょうから、もう少し向き合ってみましょう。
・自分中心のものの見方
・自分の独自ルール
・自分の期待・理想・要求のおしつけを持っている
・謙虚でない
・譲り合いの気持が無い
・相手の気持ちがわからない
それが怒りや不満になっていってしまうのです。
毒でしかありません。
本当に変わりたければ、子供に父親を返してあげてください。
子供も養えない状況になりつつあるのに、子供を自分のものにしようとする。
あなたに何かがあったらお子さんは路頭に迷います。
まず、本当に助けを本当に求めるべきではないでしょうか?
まずは、子供の親に何度も(最低3度)お詫びをし復縁をすることです。
役所へ行って生活保護、母子支援関係の手続きもちゃんととってますか?

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

誰のために生きるのか

あおいさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺、觀音寺 中村太釈です。

あなたは誰のために生きているのですか。
あおいさん一人で生きているのなら、好きなようにすればいいと思います。離婚しようが、わがままであろうが、どうでもいいことです。

しかし、子どもが3人もいて、母親になったにもかかわらず、まだ娘のつもりですか。
子どもたちに何の罪もありません。あおいさんが母ならば、子どものために生き、あおいさんの身を削って子どもを育てなさい。絶対に、子どもに負担をかけてはいけません。

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有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

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