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双極性障害が死ぬほどつらいです

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有り難し有り難し 44

(編集部より。回答者を特定した質問はできないのでタイトルを変更しました。)
初めまして。
双極性障害が死ぬほどつらいです。
夫も子供もいなくて寂しく、
街に出て家族連れを見るのがつらいです。
元気な人がうらやましいです。
働くこともできません。

受け入れられないから
つらいのでしょうか?

親兄弟が理解してくれているのは
ありがたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

病にありては体は病でも心で病まぬが病を無くす最上の方法

お辛いことと存じます。
何もできなくて申し訳ありません。
私ができることは限られていることですが、効果があるかはわかりませんが生活の中で可能であれば取り入れてみて頂ければありがたいです。
それは、以下の①と②を完全に分離するという姿勢で、生活されることです。

体の痛み 体の元気のなさ 体の言うことの効かなさ 体の思い通りにならなさ


それに対してネガティブな気持ちを持つこと
暗い気持ち 何とか状況を変えたいと思うこと
自分は不完全だと思うこと

私も病気をしたときなど、心がものすごくダメージを受けて死にたいと思うようなことがありました。インフルエンザで40℃以上の熱を出した時や手足口病でみも心もボロボロになった時、以下のことを実践しました。

☆体の痛みは体の痛み。
抵抗しても良くならない。
良くならないのであれば、薬で抑えられることは薬に頼って、体の痛みを極限までライトにする。
心はそのことに対して、干渉しない。
そのことをその通りのままに処する。

気持ちのあり様としては、心を思いや印象、イメージ、想念の世界に旅立たせないようにしていました。
すると、心で苦しむことは無かったのです。
体はさすがにしんどかったです。
ところが、心が動かない状態ですと、病痛は病痛で心と分離できるのです。
痛いは痛いのですが、痛いという体の感覚だけであって、心で倍以上に苦しまなくなったということです。
変な話ですが、その感覚ですといつ死んでもいいような感じなのです。
これはマスターする甲斐が絶対にあると思うのです。
仏教の生老病死からの具体亭なすくわれ方法であろうと思います。
沸き起こる心の思い、いやな気持が出てきたとしても、そこにそれ以上火に油を注がない。
思いが出たのは反応の一種です。
その反応を誰のものでもないままにいることによって、痛みですらわが体のことではありながらも、自分のものにはならないのです。
この自分のものにはならないという感覚が大切です。
川上からドンブラコ、ドンブラコ。
様々な感覚が流れてきました。
それを拾わずにスルーすることで、桃も痛みも、ネガティブな気持ちですらも誰のものにもならないままに流れて行くからです。
心が軽やかな方へ向かうことを祈ります。合掌

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

理解者は大切です

 日々つらさと戦っておられるご様子、どうぞ無理なさらないで下さい。
 知人にALS(筋萎縮性側索硬化症)の人がいました。この病気は宇宙物理学者のホーキング博士が有名です。
 彼は身体を動かすことはもちろん、自身で呼吸ができなくなって人工呼吸器で生命を維持していました。このため言葉を発することはできず、意思伝達装置でコミュニケーションをとっていました。彼は、はじめはそんな様子を人に見られたくなくて閉じこもっていましたが、介護者である妻の「家に誰も来ないのは寂しいしいやだ」という一言で考え方を改め、外との交流を持つようになりました。その後コップの水を見て「まだ半分も残っている」という生き方をしたいと言っていました。失ったものにとらわれず、残されたものを生かそうという考え方です。そんな彼の考え方に感銘を受け、いろんな人が集まりました。看護学生に自身の身体をとおして看護の仕方を教えてもいました。
 双極性障害の方ではゴッホやヘミングウエイ、宮沢賢治など芸術家に多いですね。もしかすると、そうした得意なことがおありかもしれませんね。
 障害を理解して支えてくれる人の存在は大変大きいと思います。ぜひ大切にしてあげて下さい。そして何より、ご自身が障害とのうまい付き合い方を見つけられることをご祈念申し上げます。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
35年ほど地域福祉の仕事をとおして様々な相談に応じてきました。浄土宗教師以外に社会福祉士と介護支援専門員、福祉住環境コーディネーター2級などの資格を有しています。少しでも気持ちが楽になっていただければ幸いです。
平日の夜や休日など時間帯によっては可能です。

質問者からのお礼

平井様 丹下様

長く丁寧なご回答、ありがとうございました。
なかなか難しいですが、
無理のないよう頑張ります。

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