生きる気力がありません。
25歳女です。なんで生まれてきたのかわかりません。
人間なにのために生きているのか。
もうやる気がありません。両親は他界し、養子になりました。
私は薬物で2回自殺未遂して奇跡的に命を取り止め、
姉も薬物で自殺未遂したら後遺症で二度と一人では生活できない体になり本当に可哀想だと思います。
義理の親には、薬物は死ねないしお金がかかるだけだからやるなら首吊りしなさいと冗談で言われました。
彼氏はいます。ただ、私の精神状態が不安定で彼氏の言動にムカつき今日刃物を持ってしまいました。
誰かに助けて欲しくてここに相談しにきました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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あなたなりの意味に出会うことを念じます
生きる意味を見いだせないでおられるのですね。
「人間なにのために生きているのか。」
とのことですが、
仏教的に言うならば、人間は意味があるから生きているのではありません。
生きているから、生きているのです。すなわち生きる条件(縁)がととのっているから生きているのです。
そして、生きている限りはそこに意味を求めてしまうのが人間なのでしょう。よって、意味は後付けです。
意味があるから生きているわけではないのに、それでも人間は意味が見いだせないことで実際に命を絶つということもあります。それは命を絶つということにある種の意味を見出した結果であり、「意味に敗れた」と言ってもいいかもしれませんし、ある意味で誰よりも意味を強く求めた(囚われた)ともいえるかもしれません。
そこで仏教ではどう考えるか。私個人としては「意味に勝つ」のではなく、「意味を超える(囚われない)」というような在り方が理想なのだろうと感じます。
なぜならば、「〇〇のため」という意味は、常に〇〇に依存した在り方となります。〇〇がなければ不幸ですし、〇〇が手に入れば今度は〇〇が失われないか不安になり、やがて失った時の悲しみは計り知れないからです。
ですから意味を勝ち得るのでなく、意味に囚われずに、ただ生かされているといういのちの尊厳を喜ぶ…そうできたら平穏なのでしょう。
「もうやる気がありません。」と私の思いは考えても、いのちはそうではありません。心臓は脈打ち、細胞は分裂し入れ替わり、腹も減る…そうして生きる営みは休むことがありません。
それでも、そのいのちの尊厳に「なんて素晴らしい!生きてるだけで丸儲けだ!」とはいかないのが人間の欲深いところなのでしょう。
現実的には「意味を超える」よりも「意味を多く持つ」、つまりは「〇〇に依存しない」のでなく「〇〇も△△も◆も□も生きる意味にする」ということが有効かもしれません。
友だち、家族、恋人、仕事、趣味、ボランティア、スポット…色んな生きる意味を持つ。一つがダメでも他がある。
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他者はあなたに意味を与えられません。でもあなたは他者から意味を見出すことができます。
どうかあなたなりの意味に出会いますことを。