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托鉢

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電車通勤をしている者ですが、たった今これから托鉢をなさるだろう若いお坊様3人が同じ駅で降りました。
その後は別方向へ分かれたので彼らの行先はわかりません。

托鉢というのはあちこちでなさるものなのですか?
あと、修行しているお寺からこの日にどこそこへ行け、と言われてるのか或いは自らなさってるのか。

いずれにせよ、hasunohaで托鉢の意味を知った私としては見かけたら少しですが入れさせていただく所存ではあります。

あの駅にいれば、ですけど・・・


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

皆さまもここで手放しの心を布施してください。

お釈迦様は托鉢の際にあえて施しをしてくれない人の家に托鉢に行ったという話を聞いたことがあります。
あえて人の苦しみの一番の原因をもらいに行ったのです。
人はそれが苦しみの種となるとは知らずに物をため、お金をため、結果的に増えているのはケチな心。
何でもかんでも手放さずに手元にそれを留めておこうとする心をこそ、喜んで捨てなければ布施になりません。
お金に限ったことではなく、欲も執着も、思い込みもみな自分がそうだと思い込んで掴んで手放さないことが苦しみです。
この話を聞いて真意を会得して売れた方はぜひ、お布施をしてください。
ただし、先に申し上げておきますが、お金を布施してください、ということではなく、持っている力や悩みも手放して、自分のためだけに使うのではなく、より良い世界づくりのため、より良い世界貢献の為に布施してくださいという趣旨の話です。
私は埼玉県の狭山市❝沢❞というど田舎村に生まれた平々凡々の超ど凡人です。こんな奴でも多少は人助けをしているのですから、皆さまだってできないことはありません。
私どもも今、托鉢中なのです。
皆さんが持っているものを相手に差し上げて役に立ってもらおうという気持ちをこそ持ってほしいのです。
私はそれを今、皆さんに信じてもらうために実証中です。
どういうわけか自分の持っている救われたチエや知識をここに記して、坐禅会などでお話をするだけでどういうわけはその人が心が軽くなったり、悩みが無くなったりしています。
皆さまにもそれはできるのだということを申し上げたいのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

いろんなケースがありますよ

その道場の事情でコースが決まっている場合(修行僧が事故ったら事件になるので、歩道とかがしっかり整備されているコースを選定したり色々)。町の人の要望に応えているうちにコース化した場合(特定のお宅に立ち寄らないと怒られるほど篤信の方もいらっしゃいます)。義捐金を集める托鉢などで地域を分担してまわる場合。個人で気の赴くままに回る場合。ニセモノのお坊さんモドキがフリーダムにやっている場合。いろいろです。

托鉢中のお坊さんの態度は素っ気なく感じられるかもしれませんが、それが正式な作法ですのでお気になさらないでください。
突然お唱えごとをされてビックリなさるかもしれませんが、そっと合掌で受けてあげてください。

喜捨を通じて晴れやかな気持ちを味わっていただければ幸いです。

そうそう、托鉢の時期も道場によって週一回とか冬場だけとか、何日と何日、災害等があったから臨時でやろう、気が向いたからやろう、食費をねん出するためにやろう、等など定期だったり不定期だったりします。そこもいろいろなんですね。でもお坊さんというドMな人種は冬場の寒い時期にやりたがる人が多いので、これから遭える確率は上昇傾向になるでしょう。折良く遭えるといいですね。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

質問者からのお礼

丹下様
お返事ありがとうございます。
今回の質問で私は托鉢の意味を知っている「つもり」であることがわかりました。
とても奥が深いものなんですね。目からウロコでした。
私たちも托鉢中、のお言葉とても胸に響きました。今後その精神で日々を過ごして行けたらと思います。

大慈様
お返事ありがとうございます。
実はhasunohaの本を見てから大慈様のファンでして。今回お返事いただけたこと、とても嬉しく光栄に思います(*´艸`*)

そのお坊様を見かけた時は素直に頑張ってるな、と思いました。ただ、hasunohaを知る前の私は托鉢=ニセモノ、怪しい、乞食←言い過ぎ、の印象しかなくて。それまでの自分にグーパンチかましたい気分です。

今回は結局逢えなかったのですが今後どこかで逢えたらいいな、と思います。

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