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自分が情けない

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親の反対を押し切って、大学進学を機に地元を離れました。学費や仕送りなど、経済面でかなり迷惑をかけていることが申し訳なくて仕方ないです。その分、勉学に励もうと思うのに寝坊して毎日授業に遅刻します。気づいたら授業中に携帯を触っていたり、ぼーっとしていたり、その度に自己嫌悪に陥ります。

また、アルバイトをしていたのですが、稼いだ分は全て追っかけに費やしてしまい、貯金がありません。貯金がないことにもとても焦って、新たなアルバイト先を探しているのですが、面接に受かってこの日から出勤ね、と言われても当日になると面倒になってしまいます。
そのお店にも迷惑をかけていることは分かるのに、やる気が出ません。

私はいろんな人に沢山迷惑をかけていて、自分は何も頑張れない、ただ怠惰な毎日を送っているクズ人間だと思います。
どうやったら生まれ変われますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

クズ人間と知らぬクズ人間からクズ人間を自覚した非・クズ人間

まず、死ぬほど寝て暮らすことです。
何もしないで本当のクズ人間生活をするのです。
すると私のようなカバでもバカでも「やべぇ、、、💀」と思います。
中途半端にクズだからダメなのです。
本当にクズ人間になって情けねぇと思わないと人間変わらんところがあります。
だからといてそっちに甘えぬよう。
私も実際に試したことがありますが、やべぇ、と思います。
プレステが流行った頃、友人が不要になったスーパーファミコンをかしてくれました。
大学4年の頃、なんもしないでいた時期がありました。
しばらくやってたら「やべぇ…」と思いました。
体は何もしなくてもカロリー消費しているのに、自分は仕事もせず勉強もせず寝てるだけ、遊んでいるだけ。
もっと世の役に立つことをしないとイカンと思いました。
その「思う気持ち」が大事だったと思います。
どこかしらダメだとわかっているはずなのです。
あなたも、今の自分をクズ人間だ、と言っているということは、それをやり続けることは良くないと本心でちゃんとわかっているのです。
あなたには「やべぇ」という自覚がある。
そこに向き合える力がある。
それを通り越すと本当のリアルクズ人間です。
自分のクズさに向き合って「やべぇ」と思えたら人間は爆発的に変わります。
その時より良い方向へ向けて進んでいく力が菩提心です。
お釈迦様でさえも失礼ながら最初はクズ人間だったのです。
そこから爆発的に立ち直って菩提心を貫いたから聖人になられたのです。
あなたのロケットはマモナク打ち上げられます。
私もまだまだクズ人間ですから、お互いどんどん力をためて世間に良き心を噴出しましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答いただき有難うございます。
良い方向へ向けて頑張ろうと、気持ちの切り替えができました。
辛い時はいただいたお言葉を思い出そうと思います。
本当に有難うございます(;o;)

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