hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

阿弥陀さまの救いについて。

回答数回答 3
有り難し有り難し 43

阿弥陀さまは念仏を称えない人も極楽に往生させてくださいますか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

念仏を唱えるのは極楽浄土に行きたいからです。行きたいという思いが大切なのです。
その思いがあるけど何らかの事情で念仏を唱えられないなら、阿弥陀様はその気持ちを汲み取って、救いに来てくれると思いますよ。
また、阿弥陀様の救いを知ることなくお亡くなりになった人の為に、誰かがその人に代わって念仏をお唱えすれば、きっと阿弥陀様はその人の意向を尋ねられ、極楽浄土に行きたいと答えたなら、その人の手をしっかり掴んで、極楽浄土に連れて行ってくれると思いますよ。
阿弥陀様は極楽浄土に行きたい人はみんな連れて来ると誓いを立てたのですから。
南無阿弥陀仏

{{count}}
有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
このお坊さんを応援する

往生できません。

十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば
あみだとなづけたてまつる
『浄土和讃』親鸞

何処の誰だろうと、念仏の衆生をちゃあんと見ていてくださって、必ずすくいとって決して途中で見捨てない。それを「阿弥陀」といいます。

阿弥陀佛が”みそなわしている”のは【念仏の衆生】であって、【一切衆生】とは言っていません。たしかに、みんながみんなを救いたい阿弥陀様。でも、仮にも仏教とは物事の道理を説く教えであり、”何でもアリ”ではそれに反するというものです。

「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。」
『教行信証』親鸞 

極楽往生の確信には、必ずお念仏がセットになっているはずです。もちろん、お念仏しているからといって極楽往生を確信しているかといえば、それは必ずしもそうとは限りません。しかし、確信だけあって念仏はないというのは物事の道理からいってありえません。あったとすれば、それは盲目的な信仰、つまり妄想です。

お念仏をしたくないのならば、別の浄土、別の救われ方を求めればいい。

阿弥陀様の西方極楽浄土に往生を求めるのであれば、
南無阿彌陀佛と称える(唱える)という行為がその取っ掛かりになり、またそれがすべてを包括していたりするわけです。

南無阿彌陀佛 拝

<追記>
”別に念仏を唱えたくないなんて一言も言っていないんですが”
もちろん、わかっていますよ〜(笑) 例えばーーーの話です(笑)
あなたにもぜひお念仏してほしいし、いつかかの浄土でお会いしたいなと私は思っています。

{{count}}
有り難し
おきもち

【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
このお坊さんを応援する

阿弥陀如来様のお救いの御手

七草様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

阿弥陀如来様のお救いの御手は、確かに極楽だけではなく、娑婆世界にも届いております。

しかし、私たち凡夫においては、そのお救いの御手を見つけ、掴める自分があるのかどうかがやはりそれぞれで大切なこととなって参ります。

お釈迦様は最期のご遺言の中にて「自灯明 法灯明」を説かれておいででございます。

「自灯明」とは、「(最後には)自分を救うのは自分である」ということでございます。

自分以外に、例えば、お釈迦様であれ、阿弥陀如来様であれ、誰であれども、(最終的に)貴方様を救うことはできません。

自分を救うのは、何よりそれぞれの自分の行い(業)如何となるのでございます。

そのために、「法灯明」、つまり、「仏法を拠り所として」とお釈迦様はおっしゃられておられます。

しっかりと仏法を拠り所として、己の行いを調えて参りたいものとなります。

阿弥陀如来様の救いの御手に気付き、掴める自分を、しっかりと仏教を修習する中で見い出して参りたいものでございますし、また他の者も、その御手に気付き、掴めるような、しかるべきご仏縁のあるようにとして、仏教修習と共に、皆が救われますようという回向にも努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

聖章さん

ありがとうございます。他の人が代わりにお念仏を称えることも可能なんですね。

浄流寺さん

別に念仏を唱えたくないなんて一言も言っていないんですが(((((゜゜;) ともあれお返事ありがとうございます

追記読みました!それならよかった!もしかして私の書き方で誤解を与えてしまったのかと思いました。

川口さん

やはりそうなのですね。わかりました。ありがとうございます。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ