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念仏を唱えるのは極楽浄土に行きたいからです。行きたいという思いが大切なのです。
その思いがあるけど何らかの事情で念仏を唱えられないなら、阿弥陀様はその気持ちを汲み取って、救いに来てくれると思いますよ。
また、阿弥陀様の救いを知ることなくお亡くなりになった人の為に、誰かがその人に代わって念仏をお唱えすれば、きっと阿弥陀様はその人の意向を尋ねられ、極楽浄土に行きたいと答えたなら、その人の手をしっかり掴んで、極楽浄土に連れて行ってくれると思いますよ。
阿弥陀様は極楽浄土に行きたい人はみんな連れて来ると誓いを立てたのですから。
南無阿弥陀仏
往生できません。
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば
あみだとなづけたてまつる
『浄土和讃』親鸞
何処の誰だろうと、念仏の衆生をちゃあんと見ていてくださって、必ずすくいとって決して途中で見捨てない。それを「阿弥陀」といいます。
阿弥陀佛が”みそなわしている”のは【念仏の衆生】であって、【一切衆生】とは言っていません。たしかに、みんながみんなを救いたい阿弥陀様。でも、仮にも仏教とは物事の道理を説く教えであり、”何でもアリ”ではそれに反するというものです。
「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。」
『教行信証』親鸞
極楽往生の確信には、必ずお念仏がセットになっているはずです。もちろん、お念仏しているからといって極楽往生を確信しているかといえば、それは必ずしもそうとは限りません。しかし、確信だけあって念仏はないというのは物事の道理からいってありえません。あったとすれば、それは盲目的な信仰、つまり妄想です。
お念仏をしたくないのならば、別の浄土、別の救われ方を求めればいい。
阿弥陀様の西方極楽浄土に往生を求めるのであれば、
南無阿彌陀佛と称える(唱える)という行為がその取っ掛かりになり、またそれがすべてを包括していたりするわけです。
南無阿彌陀佛 拝
<追記>
”別に念仏を唱えたくないなんて一言も言っていないんですが”
もちろん、わかっていますよ〜(笑) 例えばーーーの話です(笑)
あなたにもぜひお念仏してほしいし、いつかかの浄土でお会いしたいなと私は思っています。
阿弥陀如来様のお救いの御手
七草様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
阿弥陀如来様のお救いの御手は、確かに極楽だけではなく、娑婆世界にも届いております。
しかし、私たち凡夫においては、そのお救いの御手を見つけ、掴める自分があるのかどうかがやはりそれぞれで大切なこととなって参ります。
お釈迦様は最期のご遺言の中にて「自灯明 法灯明」を説かれておいででございます。
「自灯明」とは、「(最後には)自分を救うのは自分である」ということでございます。
自分以外に、例えば、お釈迦様であれ、阿弥陀如来様であれ、誰であれども、(最終的に)貴方様を救うことはできません。
自分を救うのは、何よりそれぞれの自分の行い(業)如何となるのでございます。
そのために、「法灯明」、つまり、「仏法を拠り所として」とお釈迦様はおっしゃられておられます。
しっかりと仏法を拠り所として、己の行いを調えて参りたいものとなります。
阿弥陀如来様の救いの御手に気付き、掴める自分を、しっかりと仏教を修習する中で見い出して参りたいものでございますし、また他の者も、その御手に気付き、掴めるような、しかるべきご仏縁のあるようにとして、仏教修習と共に、皆が救われますようという回向にも努めて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
聖章さん
ありがとうございます。他の人が代わりにお念仏を称えることも可能なんですね。
浄流寺さん
別に念仏を唱えたくないなんて一言も言っていないんですが(((((゜゜;) ともあれお返事ありがとうございます
追記読みました!それならよかった!もしかして私の書き方で誤解を与えてしまったのかと思いました。
川口さん
やはりそうなのですね。わかりました。ありがとうございます。