hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

二種類の難病を患う

回答数回答 2
有り難し有り難し 13

こんにちは。
10年前にストレスから痙性斜頚と言う難病を患い
2015年11月に手腕の痺れから脊髄造影検査を
受けた結果、後縦靭帯骨化症と言う難病と
診断されました。

最初の病気の時は鬱気味にもなり
死んだら楽になるだろうな~と思いましたが
これは仏様が与えてくれた試練!! と前向きに
病気と向き合ってきました。

今回、また試練を与えられましたが…
なんで私だけ2度も?と言う思いです。

これをどう前向きに捉えればよいのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の在り方も改める必要があるかもしれません

ストレスなど、心の在り方が原因になって病気になられたのであれば、その一番の原因である「心の在り方」をちょっとカスタマイズ、もしくは無為にする必要があります。
ひょっとすると、いつも何か構えがありませんか?
自分のスタンスらしいことを持ってしまっていませんか?
正義心が強くありませんか?
自分のルールが強くありませんか?
思い通りにならないことで心ががっくりきたことがありませんか?
思い当たることがあるならば、おそらく、あなたの中に
「事前設定」があると思うのです。
「事前設定」とは、この世に対する個人の中の各自設定されたスタンス、ものの見方、思考パターンです。
そういうものは、無くしてしまった方が良いものです。体の為にも。現にそれが原因で体を患ったのであればなおのことです。
何故、個人の、「個(私)」の事前設定を持ってはいけないのか。
それは、この世にあらかじめの「おおやけ(公)の」事前設定があるからです。
この世の全てが、こちらの自分(個・ワタシ)の思いや願いとは無縁に流れている。
超スーパーミラクルウルトラ・ド級の「公」ワールドがこの世の中の、事前ルール、事前設定なのです。
自分のもちものの様な個人設定、事前設定は一度初期設定(無我)に戻してください。
そのために効果的なのが坐禅という。ニュートラル、ZERO、ワタクシ濃度ゼロ、無反発スタンスなのです。(たとえですが)

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

何故、苦しみが訪れるのか

過去世でやってきた罪、やって来なかった罪の報いがこの世で現れます。
誰のせいでもない、みな自分が悪いのです。
人はみな報いを受けるためにこの世に生まれてきます。生まれてくる目的はそれしかありません。

ですから今あなたは人生の目的を果たしている真っ最中。病気から救われたいなんて考えてたら生まれてきた甲斐がありません。
病気に苦しむ事で
「ああ、自分は過去世にこんなにも人を苦しめたんだな、
今は覚えてはいないがその時、
人にに与えた苦しみはこんなにも辛いものだったのか。
申し訳ない事をした。甘んじてこの苦しみを受けよう」と思って過ごさなければならないのです。

あなただけじゃない。この世に生まれてきた人間はみな罪を償うために生まれてくるのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

遅くなりました。
回答ありがとうございます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ