自分が嫌いです。
自分が嫌いです。
どうしてもそこから抜け出せません。
私は「自分が嫌いな自分」に酔っているのだと思います。悲劇のヒロインぶっているのかと思うと、そんな自分も許せません。大嫌いです。強くカッコ良くありたいです。
理想が高いのかも知れませんが、ダメな自分をどうしても受け入れることができません。
自意識が強すぎるのでしょうか。
そもそも自意識を弱めるにはどうしたら良いのでしょうか?
自分が嫌いだと、人がどんなに私を「良い人だ」と言ったところで、それを信じることが出来ません。
好意を言葉にされても、「貴方は私の何を知っているのだ。私はこんなにダメな人間で、良いところなんてないのに!」と苛立ってしまいます。嘘を付かれているようで、勝手に傷つきます。
結果、心から相手のことを信頼することができません。当然好きになることもできません。相手に対しては罪悪感だけが残ります。
思い切って家族にうちあけたところ、「それは相手にも凄く失礼なことだ」と言われました。
失礼だということはわかっているんです。相手を信頼していない証拠です。
他の人に相談しても、「自己肯定感が低すぎる」「人間一人殺してきたかのような罪悪感だね」と言われます。
自分でもそう思います。なぜこうまで自虐的なのか。
でもいいかげん、変わりたいです!
同じことで悩むのはやめたい。
自分を憎むのをやめたい。
ありのままを受け入れるようになりたい。
助けてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「自分」とは何か・・
ゆき様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「自分」とは何か・・
正直、何か自分というものが「ある」と考えてしまうと、結局はどこを探そうが答えは見つからずに迷ってしまうことになります。
もちろん、「ない」というわけでもありません。現に貴女様は、そのように今存在されています。
ただ、貴女様は、あるにはあるのですが、そのありようについて考えてみるというところであります。
仏教では、「全ては、縁起し空である」と申しまして、「縁起」とは、「縁って起こる」ということですが、「他に縁って起こる」ということで、全ては自分自身において独立自存として実体的に、他に依存せずにあり得ているものではなく、まあ、簡単には因縁(原因と条件)によって成り立っているものであると説明されることになります。
自分というものも、他に依存して、色々な因縁に依存して成り立ち得ているものとなります。
自分は、自分が、自分の、と思っていたとしても、その自分には実体がないために、何をどうしようとしても、本来的には無理になってしまうのであります。つまり、「嫌いな自分」も、では、何がその自分かについて、どこを探そうが、見つけられるものではないということであります。
ただ、実体的な存在ではない自分を理解することができれば、他との関係性に思いを向けることで、他との関係性が善いものであれば、善い自分というものが存在し得るになるものとして、自分云々よりも、他との関係をよく善くに調えられていければ、自然に自分というものも善いものとして捉えられることもできるとして、あまり自分、自分と自分を責められ過ぎずに、自分について思うよりも、他への配慮や気遣い、親切さなどに努められていかれますと、善い関係性により、善い自分が醸成されて、自然にそんな自分を認められるようにもなるのではないだろうかと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口英俊さま
この度はわたしの悩みに答えてくださり、本当にありがとうございます。
わたしの中にない価値観・考え方だったせいもあり、噛み砕くのにすこし時間がかかりました。
けれど今は、不思議とこころが少し楽です。
自分というものに、こだわり過ぎていたわたしに気づきました。今までは、気づいている気がしていただけで、本当の意味で気付けていなかったような心地がします。
自分というものは、もっと曖昧なものでいいのかもしれません。
頂いたお言葉を大切にします。
これからのわたしの人生を良い方向に導いてくれる予感がしています。
何度も読み返します。
ほんとうに、ありがとうございました。
ゆき