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一昨年、亡くなられたアイドルの女性のことが頭から離れません

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有り難し有り難し 18

松来未祐さんという声優であり、ラジオパーソナリティをされていた女性が一昨年、病気で亡くなられました。
穏やかな人柄でよく笑い、笑顔が素敵な可愛らしい女性でした。
私は松来未祐さんのファンだったのですが、彼女が亡くなられてから暫くは、その実感がありませんでした。
ですが、松来未祐さんの声を聴きたくて、彼女ののこした楽曲やラジオ番組を聴いていくうちに、もう彼女の言葉を聴くことは出来ないのだ、彼女にしてあげられることは何も無いのだという実感がこみあがって、とても哀しい気持ちになっております。
私は、この気持ちをどこに向かわせれば良いのでしょうか。
ご教示お願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

同じ「血脈」を感ずべし。 FOR THE 菩提心

お釈迦様が亡くなられたとき、賢い弟子たちは供養塔を建て、その遺徳をしのび、お釈迦様の広められた精神・徳業を継承され教えを広めていきました。
その教えは今も継承され、このhasunohaというサイトにも広まり、あなたの所にも届いています。
あなたはその方に感銘を受けられて、心の支えとなったものがあったはずです。
その素晴らしいものを多くの人たちに届くように追善の活動として広めてあげてください。
仏教においては菩提心と申しまして、お釈迦様の得を偲び、いずれ生老病死、四苦八苦に直面する私たちです。その苦しみの波を乗り越える舟を残すことが恩に報いる徳行です。
あなたも、恩に報いてみてはどうでしょうか。
私はギターが好きなのでギタリスト業界で❝凄い❞ものを持っている方の奏法や感性に没入します。敬愛し尊重し、自分でも作り上げるように精進します。
自身がそれを弾いて同じ音を作り出せるようになった時、その方は私と共にあります。
それが血脈です。同じソウル。同じブラッドになります。
あなたも同じ精神を追求されればよいでしょう。
仏教であれば仏祖の恩徳に報いるべく、自分の心に向き合い悟りのこころを求めて、祖師の遺された教えを頼りに仏心ということがどういうことであるか、悟りということがどういう心のあり様かを参究します。
あなたが彼女のようになれなくても、彼女が広められた精神を継承することはできるはずです。人間はサッカーボール、ミラーボールのように無限の多面体なのです。
そなえるべき精神を授かれるまで、聞き返してみてください。
あなたに響いた問うことは、誰かにも響くはずです。
山は山を愛する人のものとなるものです。
地元の公民館で切り倒される予定だった樹齢の長いイチョウの木がありました。
それを地元の有力者、風の森幼稚園の理事長、田島昭雄参という方が私財を投げうって幼稚園の園庭に移植されました。
無くさない。死なせない。活かし続ける。伝える。愛あるこころを広める。
あなたにはあなたにできることがあるはずです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元さま

ご回答ありがとうございます。
拝見させていただきました。
お釈迦様を偲んで、仏教を広められたお弟子さん達の気持ちが、今の私には少し分かるような気がします。
松来さんの素晴らしい人柄を活かし続けるために私に出来ることは何か、彼女の言葉に耳を傾けながら、私なりに向き合ってみたいと思います。

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