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黒い人が枕元に現れる

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2ヵ月前から2回ほど、夜 枕元に黒い人が現れます。 1回目は怖いと思いませんでしたが、2回目はとても怖く悲鳴をあげて、手で振り払いました。 2回とも共通しているのが、黒い人が現れた3~4日後に地震がありました。 2回目は地震だけではなく、車の事故をおこしてしまいました。 全てを結びつけることはよくないですが、夜になると怖く眠れない日が続いています。 何卒よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

夢は脳のデータ整理、気にしなくてよい

枕元に人が現れる場合、あなたは半分眠っている、つまり夢なのではないでしょうか。
夢は、脳が日中に溜め込んだデータを整理しているため起きるのだそうです。
あまり気にしなくてよいと思います。

私も、よく見る夢が2種類あります。
1つは、子供の頃から風邪で高熱のときに見る夢、といっても、夢の内容があいまいなのですが、夢の中で感じる身体感覚が独特で共通なのです。(説明すると長くなるので省略。)
もう1つは、車を運転する夢で、スピードの制御がきかなくなる夢をよく見ます。

恐がるのはよくないと思います。
夢は所詮夢だと、開き直りましょう。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

ホラー映画のCMおよびテレ東のB級ホラーの影響です

とういうのは冗談ですが、半分マジです。
『…その時、そのお墓の前で年輩の女性が私の後ろに立っていた。
「私は見られている…。」
見られているだろうから、それらしく振舞っていた。
やれやれ、坊さんというものは衣を着ると、それらしく振舞わなければならないものだ。
クルリ。
ところが、振り向いた時、アレ?そこにその人はもういなかった。
私は、居ない処に、人がいるものだと思い込んで、その自分の生み出した心の中の影に対してふるまっていたのである。
「和尚さ―ん」
「あれ、どちらへ」
「マッチを忘れちゃって…」
そんな事がよくあるものである。』
丹下覚元 自伝小説「リアルいないいないいなくなった婆さん」より

人間の自我意識、自意識というものは、そこに無いものものを生み出すものです。
ところが、本当に本当のところは、存在していないのです。
それは自分の頭が生み出した、不安材料などからくる恐れであったりします。
防衛反応の一種だと思いましょう。

『…その時、窓がちょっとだけ開いてた。
そこに誰かさんがのぞいているような気がしてならないのであった。
どうも最近、そのように思ってしまう事があるものだ。
それもそのはず、この男は佐々木希見たさにテレ東で映画「呪怨」を妻に内緒で録画して観ていたのだ。
私は、日本刀を持って(持っとるんかい)窓のそばまで行ってみた。
ガラっ!
するとそこに、狐のゴンがマツタケとくりをくわえて…、
いや、誰も居なかった。
私は、そこに誰も居ないのに、人がいるものだと思い込んで、その自分の生み出した影に憶したのである。
「ゴン、オレ自身だったのか、誰かがいるかのように思わせてクリたのは。」
ブラウン管には、呪怨のキモいキャラと佐々木希と、窓の隙間から急にワイフが入ってくるんじゃないかとおびえる私自身の心の影が映っていました。』
丹下覚元 自伝小説「ゴンぎつ居ね」  

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
ほっとしています、お忙しい中 ありがとうございました。

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