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信じてもらえなかった過去。

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有り難し有り難し 14

思い出して辛くなってきてしまいました。

子供の頃、母に「あんたは性格が悪い、根暗だ」と言われていました。

私は子供の頃は特に何も考えずにボーッとしていただけで、ただ「こうしなさい」と言われた事をやっていただけの子だったと思います。周りの大人にも優しくしてもらえていました。

たまに姉に喧嘩を売られることがあり、言い返しても拉致があかず適当に答えていた時期がありました。
姉が母に「次に適当なこと言ったら叩いてもいい?」と言うと母は「イラっとくるからいいよ」といわれ、実際母の目の前で叩かられても母は止めてくれませんでした。

高校くらいに上がった頃にまた姉にイチャモンをつけられて、もう関りたくないと思い、何年間か姉とは話をしていなく、姉自身私には話しかけてきていませんでした。

しかし、母や祖母には私が一方的に姉を嫌っていると思われていて「2人っきりしかいない姉妹なのだから仲良くしなくてはダメだよ」と言われて、母にも「お姉ちゃんは優しいけど、あんたは冷たいね」と言われていました。

大人になっていくと姉は外の世界とのトラブルが度々出てきて、その度に母は「不器用で可哀想な子」と言って姉が明らかに常識はずれな事をしていても注意などはしませんでした。そして「あんたは上手く出来るのだから」と言って姉が貰えたものを私は貰えませんでした。逆に、私が自力で得たものを「姉が嫉妬するから可哀想、もっとあんたは苦労しなきゃダメだ、姉を見習え」と言われていました。

大人になってからもそう言うことが度々あり、その度に「あの子は優しい子だから」と言って私の気持ちを理解はしてくれませんでした。

ある時、母と姉の仲が悪くなった時があり、母が姉の不満を言い出したので、その際に色々母に言って見ました。やはり、私と母の前では言っていることが違ったことも分かりました。

最後は母も「姉が私に利用価値があるから近寄ってきてるってわかってる」と言い出しました。

その後、私が精神病になったりしたので母が私の気持ちを汲んでくれる事があり、私の嫌なことは無理強いしなくなって、今までみたいに姉の思い通りにはならなくなり、姉が「お母さんはやっぱりたまごを贔屓している」と言い出すようになりました。

疲れました。もっと普通のお家に産まれたかったです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

家族の事であってもワタクシしない

山を越え谷を越え遠く離れることです。
空間的にではありません。
人の「わたくしエネルギー」からです。
出家とは人のわたくしエネルギーから逃れることでもあります。
他人のわたくしエネルギーと、そして自分自身のわたくしエネルギー。
自分自身のわたくしエネルギーとは、あなたがお母さんの心を求めようとしたり、お姉さんとはりあったり、お姉さんに対して「こうなってほしい」と思うことも実は小さなわたくしエネルギーなのです。
それが自分を苦しめる一つのエネルギーになっていると思います。
古来の出家とは、家族や親元も離れてお互いにしらん者同士がお互いに「わたくしエネルギー」や我欲を控えて生活していました。
現代においても、それは必要です。
家族というのは家独自の家にしかない謎の変なルールが沢山あるはずです。
さて、人間は誰かに頼る生き方をしていると苦しいものです。
よりどころになるべきものをよりどころとしませんと、何かあった時にグラつくものです。
仏教的生き方とは「人」をよりどころとしません。
ゼッタイに壊れないもの、絶対に大丈夫なものをよりどころとするべきです。
「法に住する」と申しますが、人間が頭の中であれこれ考えた勝ち負け、優劣、過去未来、損得、苦楽、増減をすっ飛ばして、人間の思考以前の事実に安住することが「法に住する」ことです。
法に住するには坐禅が最も良い近道です。
考えているときは苦しいのではありませんか?
考えている時だけ苦しいのではありませんか?
ならば、その考えからも出家するのです。
自分の思いからも遠く離れることです。
自分が考えたことに自分が近すぎると本当にその思いが真実に近く感じられます。
映画であってもドラマであっても紙芝居であっても感情移入しすぎると自分自身の事のようになってしまいます。
あなたのお姉さんもお母さんもぶっちゃけあなたではありません。
過去だってぶっちゃけ、あなたの過去であってももう変えられません。
変えられないものを変えようとしたり、記憶に近づきすぎると苦しみになります。
そこに足を突っ込んだり、顔を突っ込みすぎることで苦しんでいたことを思い出してください。
他人さまの事も自分の過去も、天ぷら上げてる最中の油にも顔を近づけすぎるとやけどするのです。
上手な距離感を保つように心がけましょう。合掌

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元 様

私の質問は長いので読むだけでも大変なのに、丁寧に教えてくださりありがとうございました。

私は人との距離を取るのが下手で前からこちらで回答を頂く時もよく「距離」のアドバイスを頂く事が何回かありました。

自分自身や思考にも距離があるのですね、知りませんでした。少し、感情移入しやすいのかもしれません。

「考えている時だけ苦しい」そうかもしれません。
次に同じような事が起きないようにするにはどうしたらいいのか、私のこのモヤモヤはどう解消すればいいのか、そのために考えなきゃと必死に考えては答えは出ず、辛くなるだけでした。

「法に住する」初めて聞きました。
思考以前の事実に安住、難しい…

私が記憶や思考に近づき過ぎているのですね。

思考や記憶にも距離があるのですね。

そこに気づかせてくれて、ありがとうございます。

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