人生は夢見たいなもんでしょ?
昨日や一時間前、一週間前が一瞬に感じる様に
そう言ってる間に10代20代は終わって
やがていい歳になっていく
答えがない死後について頭を悩ませて
金や権力の道具にされた宗教が
みんなに馴染んで
ちっぽけなこの先の安定を求める
蠅や犬と変わらない生物の分際で
ごく当たり前の様に驕り高ぶって
人が人を裁く
真理が聞きたいです
教えてください
この様な事をどう受け止めどう生きるのか
仏陀の様に真理を知りたいです
本当の仏教で教えて欲しいです
歌う詩人になりたい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自絶瓔珞 挙身投地 号泣向仏
10代の若さで、大変なご質問をなさる。すごいです。
しかしながら、真理とは◯◯こーゆーものですよと誰かに論じてもらったところで、なかなかハイそうですかとはならないと思います。
その疑問を大切にしながら、あなたの今後の人生の中で見出し、しっかりと体得していっていただきたいものです。
とりあえず、
「無情感」と【無常観】は発音こそ同じですが、
意味は全く違いますので、お気をつけくださいませ。
言葉に浸る程度で終わりにしないこと
拳を前に差し出して自ら問いかけてみましょう。
「これはよいか悪いか。」
人はものに意味つける。
意味つけては「そうだ」と思い込む。
すでに遅しと私は言いたい。
そういうものは真理ではなく「人がそう思った」程度の事でしょう。
ものに意味をつけたり解釈したり、評価評論するのは人間の小さな思考のなすこと。後からなすこと。それは初めに言葉ありきの後から眺めた世界。
仏陀の真理は解釈ではないもの。
それは実物です。
はじめに実物ありき。初めに事実ありき。
現実、現ナマ、産地直送、とれたて新鮮、ロウLIKEスシ。
あなたの思考や思いのpaint以前のマジで思考するウン秒前。
では、それを思考で言ってごらんなさい。
何というか。
そこを何というや。
言葉じゃ言えなくなる。
だからと言って何も言わなければ、わからないのと変わりない。
仏陀はちゃんと説いた。
禅も明瞭明確に答えを持つ。
言葉でもって言葉でないところ「法」を説いて人をして悟り・正覚に導く。
「夢のようなもの。」
「実態はない。」
「どうせこんなもんだろう。」
虚無的にハスに構えて「どうせこの世はこんなもんだ」と❝言う❞事は出来るでしょう。
ところがそれは真理を「言い得ていない」。パンクロッカーの詩のように批判や攻撃はできても、その心理は幸せとは程遠かったりするものです。
真理とは、そういうレベルに陥ってはいけない。そういうレベルにとどまってはいけない。
人間が人間の思考の枠組みの中で美辞麗句を並べて「言いつくしたような」ものではない。
あなたも納得して、あなた自身が人生に決着がつくことです。
それが言葉を超えた「法(仏法)」というもの。
自己が法を求めて、法そのものになる。もとより法そのものであったことを自覚する。
お釈迦様は今日、明日とかけて禅定の中、人間のあらゆる見解・知識を超えて無為に到り、無為・無作の功徳によりて無上の菩提に到られました。
それをお釈迦様だけの事にしないのが仏道。
自ら求め、自ら確かめ、自ら「これが成仏・成道ということか!」証明する。
そこまでに到りませんと、所詮は他人の言葉並べて言葉の配列ゲームをしているに過ぎない。
この故に道元禅師は言う。
「仏道をならふというは自己をならふなり。…」
坊主の言葉を借りずして自ら参じ、自ら証すべし。
それが自分の一生涯の自信になるからです。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。」
織田信長が好んだ一節を思い出しました。
人間の一生はおよそ50年ほど、それに比べて下天という最下層の天界に住む天人ですらその一生は500年という。人間の一生は一晩の夢のように短く儚いものである。
これはこの世の無常を嘆いたのですね。
無常を見つめ受け入れること、それも1つの悟りの境地。
そうと分かっていてもやはり悲しく嘆かわしくて、簡単には受け入れられない。
そのような気持ちの言葉が後に続きます。
どう生きるのか?
お釈迦様の教えは沢山あります。
今のあなたにどれが合うか、必要かは分かりません。
なので是非とも本を読んでいろいろな教えを知ってください。
お勧めはやはりこれですね。
「ブッダの真理のことば、感興のことば」
岩波文庫、中村元訳
一文一文をゆっくり考えながら読むことをお勧めします。
そして書いてあることを実生活の中で確かめてください。書いてあることが本当かどうか。
そして、これは本当だと思えた時が、まさに体得した時となるでしょう。
(と、言葉で言うのは簡単ですが、実践はなかなか難しいです。お互いに頑張りましょう。)
人生は夢だらけ
おはようございます。
はい。人生は夢でいっぱいです。
題の「人生は夢だらけ」はかんぽ生命のCMのキャッチコピーです。あのCM見るとをなんだか元気になりますね。
そんな悲観する事ないですよ。ひとまず時間に流されず、地に足をつけ、今この時を大事にしよう。
夢にむかってまっすぐ進もうではありませんか。
如夢・如幻
山脇様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
おっしゃられる通り、まさに全ては、夢のようなもの、幻のようなものとして仏教では表現されているところであります。
例えば、龍樹大師の根本中論では、「観三相品」(第七・第三十五偈)『あたかも幻のように、あたかも夢のように、あたかも蜃気楼(ガンダルヴァ城)のように、生はそのようであり、住はそのようであり、滅はそのようである、と説明されている。』、「観顛倒品」(第二十三・第八偈)『いろかたち・音・味・触れられるもの・香り・「もの」は、たんにそれだけのものであり(固有の実体は無く)、蜃気楼(ガンダルヴァ城)のありかたをしており、陽炎や夢に似ている。』
他にも水泡、水鏡、火の輪、芭蕉、雷のようであるなどと表現もされます。
これは全て、「実体が無い」という「空」を説明するための表現となります。
もちろん、実体が無いとは言っても、何も無いという虚無・絶無ではありません。
あるものの、あり方について、そのものがそのものの現れとして、そのもの自体が独立自存として実体的に成り立っているように現れてはいるものの、そういうわけではなく、「縁起」として、つまり、縁って起こるあり方、他に依って、他に依存して成り立っているということで、簡単には、因縁(原因と条件)によって成り立っているというものになります。
善い因縁によりて、善い結果になるものとして、特に、仏教の説示している悟り・涅槃へと至るための因縁をしっかりと修習することによって、善い結果を迎えたいものとなります。
川口英俊 合掌
悩み苦しみの原因は煩悩
原因があって結果がある。
原因を変えれば結果が変わる。
悩み苦しみの原因は煩悩。
煩悩を制御できれば悩み苦しみを制御できる。
煩悩を消せれば悩み苦しみを消せる。
煩悩を消すためには、戒を守ることと(生活習慣の修行)、サマタ瞑想(精神集中の修行)、ヴィパッサナー瞑想(悟りの修行)の3種類の修行が有効。
悩み苦しみを減らすような生き方をしてはどうでしょうか?
拝読させて頂きました。
沢山のお坊さんが回答なさっておられます通り真理とは本当に実感して体得するにはなかなか大変なことかと思います。
仏教の説く諸行無常についても
ものごとは常に移り変わり決してひとところにとどまることはない
とは言っても自分の実感として理解することは本当に難しいことです。
私達はこの人生を通して、そしてご仏縁を頂き真理を何度も何度も問いただして、様々な出来事や人々との出会いの中で体感しながらまなんでいくことかと思います。
あなたもこれからの人生の中で様々なご縁を通して実際に体験しながら沢山の方々に教えを受けながら真理を学び体得なさっていってくださいね。
再度拝読させて頂きました。
良かった、ご自分のこれからの経験の中で少しずつ学んでいってくださいね。
あなたの未来はその為にあるのですからね!
どうぞご精進下さいね!
あなたを応援してますね!
質問者からのお礼
みなさん返信ありがとうございます
全部読ませていただいて思ったことが
確かなのは「たった今」だと思いました。
気持ちが楽になりましたありがとうございます