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子育てのゴールとは

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1歳3ヶ月の息子がいます。
自我が芽生え、自己主張や好奇心が強くなってきた我が子をみながら、「この子はどんな大人になるんだろう。何をして働き、歓び、哀しみ、神様から何を与えられ、どう生きるのだろう」と考えては、成長を想い幸せな気持ちになる反面、かける言葉が思い当たりません。(かけたところで分からないでしょうが…)

私にはゴールが分からないのです。
もちろん幸せになってほしいけれど、どこを目指して、我が子を育てればよいのか考えると、深い森に迷い込む気持ちになります。

将来いい職に就きお金に困らないように、人の痛みがわかるように優しい心を持てるように、人様に迷惑をかけないように…など色々思い付きますが、何かを得ると背負うものも増えますし、果たしてそれはこの子の望む「幸せ」なのだろうか、と。。

与えられた個性で天命を全うするまでなのでしょうが、子の人生において親の価値観や教育方針は大きな影響があるものだと思います。

漠然とした質問で申し訳ありませんが、親は子に何を与え、教えるものしょうか?また何を目指して子育てをするのでしょうか?
よろしくお願い致しますm(._.)m


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

母親呪縛を感じさせない程度の愛情

今は沢山愛情を注いであげてください。
オトナの都合なんて大人の都合。
子供はそんなこと考えちゃいません。
純粋に愛情を注ぎ承認欲求を高めてあげて、決して怒りんぼ言葉を伝染させないように怒ることをしないこと。
私の尊敬する井上貫道老師が「この人は坐禅が要らない」と思った方がおられたそうです。
その人は「親に一度も怒られたことない」とお話しされていました。
うらやましい限りです。
人間は良かれ良かれと思って子供に否定じみた押しつけ教育をする。
話を聞かない親や自分が育てるという姿勢の親は良くないと思います。
今日も私は親と話しましたが、ほとんど話を聞いてくれません。
周りの人とも時々リサーチしますが、昭和初期の親は人の話を聞けません。
今日は私は入院を勧められるほど体を悪くしました。
アニサキス+小腸に水がたまり+あっちゃこっちゃ大変でした。
その旨を実家に伝えましたが、うちの親は私の言うことを聞いたためしがありません。
受け止めが無いのです。
41過ぎた男が悲しくなって電話を切ります。
親はどういうわけか人によっては一法的に自分が正しいと思い込んで、自らの実際の現場の実効性・効果・現場に与える影響がどうであれ自分が正しいと思って行動します。
そういう大人にはならないようにしていただきたいと思います。
多分私はこの調子ですと、親より先にこの世を先立つと思っております。
まずは子供の言うことを聞いて、きちんと受け止めることです。
それ無しに、会話をしてもそれは一方通行というものです。
親はこれが良かれと思ってすべった愛情を注ぎます。
子供がホントに求めていることは何か。
その子が笑顔になれることではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
お言葉いただきありがとうございます。
お体大丈夫ですか?
悲しい思いをなさったのですね。私はハスノハで様々な質問への丹下様のコメントを読み、勇気付けられたり心が軽くなったりしています。辛いこともありますが、ハスノハ読者もお坊様方々皆きっと丹下様が大好きです^^どうぞゆっくり休み、呉々もお大事になさってくださいね。

私も頂いたお言葉をあらゆる時々で読み返し、心底理解できるよう、色々な形の愛情を何度も投げては受け取り、試行錯誤してみようと思います。
ありがとうございました!

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