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許せません‼

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有り難し有り難し 58

私は憎くて悔しくて、許さない会社社長と妻と社長の不倫相手や職場の人達がいます。

会社社長の不倫相手は、毎日みなの気に入らない事を全てを報告している。
会社社長妻や職場の人達も、社長が悪いと陰で言っていても働かせて給料をいただいているからと社長を否定しても社長の前では逆らわず、何か贈り物を頂くとしょうがないよとなる人ばかり。

今回退職します。

きっと笑ってる。喜んでる。と考えると何か仕返ししてやる‼
ダメになればいい。無くなってしまえと願ってしまいます。
忘れようとしても忘れられません。

私は、会社の為にと頑張ってきたのに!何を今までやってきたのか。
やってもいない事をやったと言われ!嫌がらせされ、証拠も残せず訴えられない。

こんな仕打ち‼許せません。

この社長は今までも、何人も泣かせてきたのに、平気でいる。
私が恨まなくても!
悪い事をした人達に悪い事返っていきますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

怒りを克服した方が良い

人を恨むより、腹を立てる自分の性格を改めることにエネルギーを注ぎましょう。
仏道とはそういうものです。
仕返ししたけりゃ、いっそのこと不倫の証拠でもそろえて仕返しされたらどうでしょう。
それをやったところで別に誰かが幸せになれるかどうかは別問題。
不倫は他人が被害を受けている当事者でもない限り他人が首を突っ込むことでもないでしょう。
あなたのテーマは自分の怒りではないでしょうか。
今後も怒って腹を立てていれば、パートナーも子供も生き地獄です。
自分の心の怒りのエネルギーは自己責任です。
自らの持ち歩く火の始末は自分で本当に何とかしないと一生その火で焼かれるのです。
あなたが問題にするべきことは相手ではなく、相手を恨んで苦しんでメラメラ燃えている自分の心の方を、こそ。
今後その人間たちと会うことはありません。
あなたの怒りの心は今後も一生火がつく可能性があるのに、やけどするその日の起こる場所もやけどする場所も自分なのに、なぜ他人をいつまでも恨んでいる必要がありましょうか。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

さっさと忘れて新しい職場を探してください。

あこさん、こんにちは。

ひどい会社ですね。
やめて正解です。まじめなあなたが苦労する必要はないのです。
そんな会社は必ず良い方向に行きません。どんどん傾いて行くでしょう。だからあなたがその人たちと同じレベルになって恨む必要はないのです。
知っていると思いますが、仏教の教えには見ざる、言わざる、聞かざるの三猿の教えがあります。悪いものに関わるなという教えです。そんなものに拘る必要はないのです。さっさと離れて違う生活をすれば良いのです。そんなものに関わったら余計に自分の生き方が悪くなるだけです。現に、あなたの心は少し恨み晴らしたいという気持ちになっています。恨みは自分にもかえってくるのです。
悪い人は必ず道を外します。そして死んでも地獄に道に行くのです。

後は仏さまにお任せし、自分の徳を作る道を歩んでください。あんな人にはなりたくないという半面教師です。がんばって!合掌

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★僧伽(お友達)になりましょう。一緒に仏教を楽しみましょう★ Email;kongozaji@renge.net(気軽にメールしてね!)  直通電話:090-6041-0193(最初はショートメールで) ※※※※※※※※※※※※ 山寺の小さな金剛座寺は10月23日に襲った台風21号で、大変な被害を被りました。大規模な斜面の崩落で客殿が倒壊の危機に陥っています。人生は何が起こるかわかりません。復興に向けて20年努力してきましたが、またリセットになるとは思いませんでした。でもあきらめません。仏さまの教えは「一切皆苦」苦難をなくすことではありません。苦難は必ずきます。それを乗り越える心を作ることが、御仏さまの教えなのです。  ハスノハに訪れる皆さん。私と一緒に人生の苦難に正面から立ち向かい、乗り越えていきましょう。仏さまと共にならば、必ずできます。合掌 ※※※※※※※※※※※※ Email;kongozaji@renge.net 在家から天台宗僧侶になりました。田舎のお寺だからできる新しいお寺ライフを試みて活動しています。特技は手話で現在某大学の非常勤講師で初歩の手話講義をしています。NPO手話技能検定協会理事の役職を頂いて手話学習の普及に努めております。社会貢献として保護司のお役を通して社会更生のお手伝いをしております。 どうぞ伊勢にお越しの際は遊びにお立ち寄りください。また活動は三重だけでなく、埼玉・東京・神奈川などの首都圏、または車でいけるところはどこでも出張で活動しています。仏事のことなら気軽にご連絡ご相談ください。お寺には宿坊もありますので、心のリフレッシュをされたいのであれば、いつでもお泊りくださいね。 私と一緒に、お寺の復興を手伝ってくれる方を募集しています。私とお友達になってください。そして伊勢の山寺をあなたの第二のふるさとにしてください。 ●お葬式や法要、納骨をお受けしております。 エリアは三重・中部・近畿から東京・埼玉・神奈川まで、車でいけるところはどこでも走り回っております。どうぞご相談ください。  (メールが有難いですが、直通電話 090-6041-0193 でもお受けします。なかなか出られないので着信を残してください。またはSNSでご連絡くだされば折り返し電話します。なお電話での悩み相談は10分と決めておりますのでご了承願います) ※もし少しでも回答がお力になれましたら、その感謝のお気持ちを、ご本尊如意輪観世音菩薩さまへのご志納(布施行)でお願いします。ハスノハ活動ができるお寺の維持活動に使わせて頂きます。 ゆうちょ銀行100010-67608891 名義コンゴウザジ 百五銀行多気支店(普)221446 名義シュウ.コンゴウザジ 檀信徒・弟子になって一緒に仏教ライフを楽しみませんか?(檀信徒費志納年1万円) 仏教を人生に活かして楽しみましょう。合掌 

自業自得

仏教に自業自得という言葉があります。自らの業(ごう)の報いは自らが受けるという意です。

しかしこれはあこ様のご希望である

>「悪い事をした人達に悪い事返っていきますか?」

という意とは少し違いがあるかもしれません。

仏教が説くのは因・縁・果です。原因があって条件がととのって結果が生まれる。例えば、その会社や社長がいかに社会的に悪といわれる方法でお金儲けをしていたとしても、お金儲けの原因を作り、条件が整えばお金が儲かります。反対にバレたり社会的制裁を受ける原因と条件がととのわなければそうした結果は生まれません。

しかしそれでもその社長さんは自らの業の報いは自らが受けることになります。同様に、あこ様も自らの業の報いは自らが受けているのです。

業とは

身業:身体的行為
口業:言語
意業:意識・心のはたらき

があり、それぞれが内容によって善い報いを生む善業、悪い報いを生む悪業、影響のない無記業に分けられます。ある行為が後に影響を及ぼすというはたらきを業というのです。

ここで、社長さんがあこ様を殴るという例で考えますと、社長さんが殴るという社長さんの行為によりあこ様が殴られたという報いを受けたように見えます。しかしその表面上の現象というのはあまり仏教では重要視されない面かもしれません。それよりも殴られたという行為によりあこ様がおこした心のはたらきによってあこ様自身が後に影響を受ける。これを自業自得というのです。
すなわち、殴られても気にも留めなければ無記業、あるいは殴られることによってそれが相手のためになったと喜ぶことができれば善業にもなるかもしれません。
しかし、殴られたことに怒りの心を起し恨みを増幅させるとそれは悪業になって後々まで自らを苦しめることになるのです。

このように、その社長さんも表面上は自らの行為により上手くいっているような結果を生み出していると見えるかもしれませんが内心はわかりません。むしろまだその悪業に気づいていないという恐ろしさ・悲しさもあるかもしれません。
そして業というのは心のはたらきのみならず、現象にも少なからず影響があるのかもしれません。(この辺は勉強不足で私も詳しくありません)
その社長さんが心の苦を抱えるのみならず、会社もこのまま上手くいくというのは考えにくいかもしれませんね。

あこ様はあこ様の業を整えていきましょう。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

質問者からのお礼

初めて今回ご相談させていただきました。
涙がとまりませんでした。ありがたいです。
私もあの会社の職員。涙を流し去っていった人もいるのを知っているのに、平気で仕事していた同じですね。
ここから早く、逃げたいとずっと思っていたのに、自分がされたら怒り許せなくなっていました。逆らう者はいらないのでしょう。
数日、自分の怒りばかりでした。私を支えてくれる人達の言葉さえ聞こえなくなっていました。

恨んでかえってきたら嫌ですし、自分の業整えないとですね。少しずつ少しずつかもしれません。自分の徳を作る道を歩んで前に進んでいきます。
ご回答ありがとうございました。

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