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釈尊と非我 龍樹と無我

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有り難し有り難し 27

凡夫の浅はかな疑問で有りますが、皆さんのお知恵を拝借させて頂いても宜しいでしょうか?

釈尊は「人間が認識出来る範囲の世界に於いては、一切が諸行無常であり、恒常不変なるアートマンは見当たら無い」
と仰られただけで、
人間には認識出来無い、凡そ形而上学的な範疇(死後の世界)に於けるアートマンを否定された訳ではない、
というのは本当なのでしょうか?

確かに釈尊は霊的な事物に関して肯定も否定もされておらず、さながらヴィトゲンシュタインのように
「語りえぬ物には沈黙を守る」という態度を一貫されていらっしゃいます。
その事も踏まえると、釈尊が「ātmanを肯定も否定もされていない。」と云う説には一理あるように思えるのです。
ここで一つの疑問が小生の頭に沸いて出てきたのであります。

後世の仏教(中観派)に於いては明確に「全てが無相であり、何処の世界にもātmanは存在しない。」と定義されております。
龍樹は「無我は釈尊の教えである」という前提に従って、
形而上学的な存在の実在を説いてきた仏教の各宗派をことごとく論破されていきました。

畏れ多い事でありますが、小生には龍樹が「語り得ぬものには沈黙を守る」という釈尊の態度に反しているように見えます。
もちろん形而上学的な不変の存在を仮定した当時の仏教は、なおさら釈尊の態度から逸脱しておりますが、
はたして龍樹の「中観思想」が釈尊の考えから逸脱しているのかどうかは、小生のような凡夫にとって図り難い問題であります。

そこで皆様に質問させて頂きます。
形而上学的な範囲におけるātmanに対して釈尊が不可知説の態度を取られていた場合、
形而上学的な範囲におけるātmanを否定された龍樹の思想は、果たして釈尊の教えから逸脱しているのでしょうか?
それとも補完しているのでしょうか?

宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

安心してください。逸脱していませんよ。

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

あまり難しいことを申しましても混乱するだけになるかもしれせんので、この度は、少しまず端的にお答えさせて頂きます。

(とにかく明るい安村さん風に)「安心してください。逸脱していませんよ。」

冗談はさておいて、、

龍樹大師は、主に帰謬論証を用いて、実体への囚われを起こす我々凡夫のあり方、特に言葉の世界におけることでの実体への囚われについて問題とされ、言葉による言葉の否定により、言葉を超えた世界、つまり、悟り・涅槃・勝義の世界へのいざないを目指されたのであります。

明らかに射程は、釈尊の悟りの内実へと向けられているかと存じます。

もちろん、確かに釈尊は「無記」は「無記」として徹底した態度を取られたところがございましたが、釈尊在世時においては、それである意味、弟子たちを教化することができ、十分に納得させられることができていたと考えるのが妥当でありますでしょう。そこは如来である釈尊の善巧方便のなせるところであります。

しかし、龍樹大師の時代では、もはや釈尊、如来は不在となり、弟子たちの中でも釈尊ほどの善巧方便を用いられる者もおらず、様々に部派が乱立するようになり、その上で実体論者までもが蔓延りだしてしまっていた事情もあって、「無記」では済ませられない状態となり、そこで、このままではいけないと、仏教の行く末を案じられた龍樹大師が、言葉を使っての徹底した言葉による言葉の否定によって、釈尊の悟りの内実へと、できるだけ言葉を用いて近づけられるようにと努力なさられたのではないかと存じております。

中論「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)

『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』

『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』

『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』

中論、是非、深く学ばれて下さいませ。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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それは誰の説?かワカランですが、それも❝説❞に過ぎんのです。

簡単な答えを申し上げますと、ぶっちゃけあなたは竜龍樹の教えで救われないでしょう。それでいいんです。それが答えなのです。
龍樹竜樹とヨイショされて神格化されている部分もありますが、結局その真意を価値ある薬として現代に子供でも分かるように解いて溶かして説ける人もほとんどいません。しかも「中論」にしたって、解釈する人によって、バラバラ。誰も手を付けられなっている。
事実は一つ解釈は無数。
真理は一つ解釈が無限。
ここでいう解釈とはダメな意味で読んでください。
シャカが説いた真理を、後学のフォロワーが勝手に解釈に解釈を重ねて、無茶苦茶にしている面があるという事を知っておいた方が良いと思います。実際仏教の大学でも、意見が分かれる。学長の論に同意、支持しないと出世にも響くという愚かしいことがウラでは行われているのです。
大切なのは❝論❞じゃないのです。❝解釈❞の方じゃないのです。
「あの薬が、作られていく背景にはこういくことがあったのではないか?」という推論などに用はないのです。❝あの薬❞(仏陀の悟り)であなたが救われなきゃいけない。
多くの人が、シャカの薬を❝論じている❞ばかりで、救われていないでしょ?
それじゃ、生きた薬、生きた悟りにならないのです。
何を言わんとしているか、何となくお分かりいただけると思います。
ご参考までに。あなたが❝論❞や、人が後から解釈した救われの無い❝説❞の世界から抜け出して、実のある、実りのある、キチンと舌救いのある仏教に出逢えるようになることを首をナーガルージュナにして待っています。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

回答有難う御座いました。

私めのような凡夫が畏れ多くも龍樹大師を侮蔑する言葉を言ってしまい、
改めて小生の人間としての程度の矮小さに恥じるばかりであります。
ここにいらっしゃられるお坊様方に対して、失礼極まり無い態度を取ってしまった事に対して深くお詫びを申し上げます。
皆様のようなお坊様方のように、これからも一層研鑽させて頂きたい所存であります。
大変失礼な質問を伺ってしまい、申し訳ございませんでした。

「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?  私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。  例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。

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真言宗と浄土真宗の中のお釈迦様

はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

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