hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

釈尊と非我 龍樹と無我

回答数回答 2
有り難し有り難し 22

凡夫の浅はかな疑問で有りますが、皆さんのお知恵を拝借させて頂いても宜しいでしょうか?

釈尊は「人間が認識出来る範囲の世界に於いては、一切が諸行無常であり、恒常不変なるアートマンは見当たら無い」
と仰られただけで、
人間には認識出来無い、凡そ形而上学的な範疇(死後の世界)に於けるアートマンを否定された訳ではない、
というのは本当なのでしょうか?

確かに釈尊は霊的な事物に関して肯定も否定もされておらず、さながらヴィトゲンシュタインのように
「語りえぬ物には沈黙を守る」という態度を一貫されていらっしゃいます。
その事も踏まえると、釈尊が「ātmanを肯定も否定もされていない。」と云う説には一理あるように思えるのです。
ここで一つの疑問が小生の頭に沸いて出てきたのであります。

後世の仏教(中観派)に於いては明確に「全てが無相であり、何処の世界にもātmanは存在しない。」と定義されております。
龍樹は「無我は釈尊の教えである」という前提に従って、
形而上学的な存在の実在を説いてきた仏教の各宗派をことごとく論破されていきました。

畏れ多い事でありますが、小生には龍樹が「語り得ぬものには沈黙を守る」という釈尊の態度に反しているように見えます。
もちろん形而上学的な不変の存在を仮定した当時の仏教は、なおさら釈尊の態度から逸脱しておりますが、
はたして龍樹の「中観思想」が釈尊の考えから逸脱しているのかどうかは、小生のような凡夫にとって図り難い問題であります。

そこで皆様に質問させて頂きます。
形而上学的な範囲におけるātmanに対して釈尊が不可知説の態度を取られていた場合、
形而上学的な範囲におけるātmanを否定された龍樹の思想は、果たして釈尊の教えから逸脱しているのでしょうか?
それとも補完しているのでしょうか?

宜しくお願い致します。

2015年11月16日 22:09

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

安心してください。逸脱していませんよ。

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

あまり難しいことを申しましても混乱するだけになるかもしれせんので、この度は、少しまず端的にお答えさせて頂きます。

(とにかく明るい安村さん風に)「安心してください。逸脱していませんよ。」

冗談はさておいて、、

龍樹大師は、主に帰謬論証を用いて、実体への囚われを起こす我々凡夫のあり方、特に言葉の世界におけることでの実体への囚われについて問題とされ、言葉による言葉の否定により、言葉を超えた世界、つまり、悟り・涅槃・勝義の世界へのいざないを目指されたのであります。

明らかに射程は、釈尊の悟りの内実へと向けられているかと存じます。

もちろん、確かに釈尊は「無記」は「無記」として徹底した態度を取られたところがございましたが、釈尊在世時においては、それである意味、弟子たちを教化することができ、十分に納得させられることができていたと考えるのが妥当でありますでしょう。そこは如来である釈尊の善巧方便のなせるところであります。

しかし、龍樹大師の時代では、もはや釈尊、如来は不在となり、弟子たちの中でも釈尊ほどの善巧方便を用いられる者もおらず、様々に部派が乱立するようになり、その上で実体論者までもが蔓延りだしてしまっていた事情もあって、「無記」では済ませられない状態となり、そこで、このままではいけないと、仏教の行く末を案じられた龍樹大師が、言葉を使っての徹底した言葉による言葉の否定によって、釈尊の悟りの内実へと、できるだけ言葉を用いて近づけられるようにと努力なさられたのではないかと存じております。

中論「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)

『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』

『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』

『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』

中論、是非、深く学ばれて下さいませ。

川口英俊 合掌

2015年11月17日 16:37
{{count}}
有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

それは誰の説?かワカランですが、それも❝説❞に過ぎんのです。

簡単な答えを申し上げますと、ぶっちゃけあなたは竜龍樹の教えで救われないでしょう。それでいいんです。それが答えなのです。
龍樹竜樹とヨイショされて神格化されている部分もありますが、結局その真意を価値ある薬として現代に子供でも分かるように解いて溶かして説ける人もほとんどいません。しかも「中論」にしたって、解釈する人によって、バラバラ。誰も手を付けられなっている。
事実は一つ解釈は無数。
真理は一つ解釈が無限。
ここでいう解釈とはダメな意味で読んでください。
シャカが説いた真理を、後学のフォロワーが勝手に解釈に解釈を重ねて、無茶苦茶にしている面があるという事を知っておいた方が良いと思います。実際仏教の大学でも、意見が分かれる。学長の論に同意、支持しないと出世にも響くという愚かしいことがウラでは行われているのです。
大切なのは❝論❞じゃないのです。❝解釈❞の方じゃないのです。
「あの薬が、作られていく背景にはこういくことがあったのではないか?」という推論などに用はないのです。❝あの薬❞(仏陀の悟り)であなたが救われなきゃいけない。
多くの人が、シャカの薬を❝論じている❞ばかりで、救われていないでしょ?
それじゃ、生きた薬、生きた悟りにならないのです。
何を言わんとしているか、何となくお分かりいただけると思います。
ご参考までに。あなたが❝論❞や、人が後から解釈した救われの無い❝説❞の世界から抜け出して、実のある、実りのある、キチンと舌救いのある仏教に出逢えるようになることを首をナーガルージュナにして待っています。

2015年11月17日 15:33
{{count}}
有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

質問者からのお礼

回答有難う御座いました。

私めのような凡夫が畏れ多くも龍樹大師を侮蔑する言葉を言ってしまい、
改めて小生の人間としての程度の矮小さに恥じるばかりであります。
ここにいらっしゃられるお坊様方に対して、失礼極まり無い態度を取ってしまった事に対して深くお詫びを申し上げます。
皆様のようなお坊様方のように、これからも一層研鑽させて頂きたい所存であります。
大変失礼な質問を伺ってしまい、申し訳ございませんでした。

「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

 釈尊の言行その2

大忍貫道 様 釈尊の言行(その1)で追記 を見逃して大変失礼致しました。  回答の締め切り通知を変更通知と間違えて調べて、追記があったのを知りました。申し訳ありません。  重要な問題なので、再度質問を立てます。  我々の出来ない体験を、釈尊が代わりになさって伝えて下さったのが仏教です。  「輪廻転生について」のお礼欄で、私は 「如来(釈尊)は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」  との金剛般若経の引用をしています。  輪廻は信じる信じないのレベルではなく、真実か虚偽かの問題なのです。  そこが仏教が宗教か否かの判断になると思います。  金剛般若経の続きで「前世、現世」が出てきます。  釈尊の語りですから、これは真実なのです。  これが輪廻転生に他ならないのではないでしょうか?  因みに仏教が信でなく真実であることは、仏教の基盤である「般若心経」が科学的真実を語っているので明白です。  詳細は省略しますが、ヒントは「諸法」の「空」が「不増不減」であるのは、諸法が自然界の中で唯一「閉じられた系」であるからです。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1

釈尊の言行

 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

有り難し有り難し 49
回答数回答 4

仏陀の教えではない仏教。

カクヨムなどの小説投稿サイトでムトウゲンジ名で人間の真理の考察しております。 とりあえず自分の行き着いた人間の真理が仏陀に近い事は理解しました。 仏陀もまだ甘いですがね。 そこで質問。 仏陀は死んだ後とかそんな事は教えてないよね? 人間が人間として生きる道を説いていた。 どう生きたら良いかを説いてました。 生きていくための道をですよ? なのに念仏唱えりゃアータラコータラ。 極楽だ浄土だ。 昔の高僧が栄養不足の睡眠不足でトリップした妄想を大事に残してこれが仏の教えとか仏陀をバカにしすぎてないですか?仏教全般。 仏陀が生きていたら仏教の信者に助走うつけて殴り付けるレベルまで落として仏陀の教えバカにしまくり。 本当にそれにすら気が付かないぐらい何も考えないのが修行なんですかね? 悟りの境地ぐらいあちこちの人がしてますよ。 アインシュタインから宮本武蔵、今はイチローと下手したら江頭2:50もね。 昔のシリアルキラーもしてた可能性高いのはいますね。 仏陀が半端な知識なため善人しかできないと思っただけで。 自分も到達しましたしね。 さて? 仏教なんぞしてると悟り開くのは無理なのになんで悟りだのなんだの言葉を使うか知りたい。

有り難し有り難し 179
回答数回答 6

お釈迦様の話について教えてください。

①毎日荷車を引く牛は、「どうしてこうも辛いんだ」と荷車を壊したら、飼い主はさらに重い鋼鉄製の荷車に変えたという話を読みました。 それによって、お釈迦様は、「辛いからと逃げて死んでも、死んだ後はもっと辛い世界がある」といい、死ぬことを考えていた人は思いとどまって幸せな人生を歩んだと書いてありました。 でも、そこで私は、「死んだあとはもっと辛いんだから、せめて今を楽しみなさい」ということ?と思ったんです。 このお話は、未来に希望が持てないと感じてしまうのですが、どう解釈するのが正しいのでしょうか? 私は旦那からひどいことをされ、ケンカをして謝るもまた同じことをされ、期待しては裏切られ、期待しては裏切られの繰り返しです。 謝られても、今ではそこで許すこともできないものがたくさんたまり、ふとした瞬間に思い出しては苦しくなります。 許すこと、流すことができれば、楽になるんだとはわかっています。 けれど、信頼して裏切られることを繰り返し、謝るのも早く話を終わらせるためでしかないとわかり、旦那の言葉を信じられません。 信じれば苦しくなるし、信じないで警戒している方がダメージが少なくなると思います。 でも、そんな毎日は楽しくないし、だからこそ他の幸せな関係を築いている人を妬んでしまいます。 ②許すことができなくなってしまった私は、どうしたら幸せになれるのでしょうか。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る