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自分から愛したいのですが、なかなかできません。

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家族と上手くいかなかった生い立ちから、愛されることばかりを望んできましたし、異性や恩師から贔屓していただいた経験はあるような気もします。

この年齢になっても、子供を愛する自信がなく結婚できていません。
ペット(猫)を飼おうと思い、実践してみたことがありますが、猫が自分に似てきたと感じた時に、かわいそうになり、3か月でもらった先(猫ボランティアさんの家)に帰してしまいました。
自分を愛せていないので、人を愛するのは次のステップなのでしょうか。
恋愛などでは、4~5年(人間の恋愛感情の賞味期限だとNHK特集でもやっていましたが…)経って、盛り上がりが収まるとダメになってしまいます。こんなことが2人の人とありました。
私は女性ですが、これからチャンスがあれば、家庭を持ちたいものです。
周囲を見ていると、愛する力のある女性しか、幸せな家庭を築けていないように思えてなりません。
こう言って、青いと言われたことがあるのですが…愛情が、無味乾燥な人生に色を入れる唯一のものだと、ずっと思ってきました。
私は感情が苦手な、頭でっかち人間ですが、人間が人間として立っていられるのは、愛情だとしか思えません。
あらゆる愛情と思考で時間潰しをしながら、人生が終わっていけばいいなと思いますが、一生、愛情を求め続けるのではないかと、悲壮感と不安で一杯の今まででした。
現在も、孤独にさいなまれていますが、こちらから愛する力がないからではないかと思い始めています。
私の母親は、今でも私に愛情を求めてきますが、私は母親のことを、”子供(私)よりも母親自身の方を大切にする”人だと、ずっと感じてきて、もう愛想をつかしてしまっています。
どんな形であれ自分の家族を持つことで、子供としての自分から脱却したいのです。
私は器の小さな人間で、棚ボタを期待しながら、一生その器で悲しむのが精々なのでしょうか?
何か思われるところをお教え頂けますと嬉しいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

アイにもいろいろある

子供ができれば愛を注がなくなることはありません。
あなたに愛がないのならば、【無ければこそ】注ぐのです。
私も母親ではありませんし、ドラマで出てくるようなベタベタ親子ではありませんでしたが、子供には愛情を注げています。というより、子供は生まれれば可愛らしいものです。
犬や猫がこの子供だけ可愛がらないなんていうことがありましょうか。
人間的な考えで以て事前にアレコレ思ったり、変な思想めいた目線で取り扱いをするからこそ、愛が屈曲していくのです。
あなたの親だって、露骨な愛、映画に出てくるような愛ではなかったでしょう。
ですが、それでもその親なりの愛だったのです。
日本人は誰もが愛情表現のプロフェッショナルというわけではないはずです。
あなたを愛で満たすためにも相手を愛してください。
子供を愛してあげてください。
さて、愛とは何でしょう。仏の愛には条件があります。
そこに「わたくし」が無いことです。
「自分中心」「自分だけ」「自分のルールの押しつけ」という事が無いことが条件です。
私的な愛は、私的な愛。
条件が必要な愛は、人間の都合愛です。
あなたが愛だと思っているものが❝私的❞都合めいた愛にならない様に、愛の質や愛の形、愛の温度、愛の質感、愛の音質、愛の香り、愛の伝わり方、愛の在り方を磨いてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

もう、お母様から自立しなければならない

あなたはあなたで、しっかりと自立した人間であることをまずは知らなければなりません。親御さんから愛情をもらおうとすることは、もうやめましょう。あなたが大人にならなければなりません。

そして、あなたが他人から愛情をもらおうとすることも、順序が違います。それは結果であると思います。
今の生活がすべてであるのに、何かほかに幸せがあるように感じていられるのではないかと感じます。
今の生活の中に幸せはあります。
そこに気がつけば、人に感謝し、人を大切にすることができます。
子供を愛せるかどうかは、実際に家族ができてからでなければ分かりません。
今から不安に感じていても仕方ありません。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

愛という言葉を

こんばんは。読んでいて思ったのですが、一旦「愛」とか「愛情」という言葉を捨ててみては如何でしょうか。
どの言葉も同じことなのですが、その指すところは、人によってまちまちです。同じ言葉なのに、双方の持つイメージのズレが、実は多くの問題を引き起こしているのです。あなたは「愛」に拘りというか執着がありますが、一旦それを封印して、自分なりに言い換えを使ってみるのです。そうすることで、「母親との関係における愛=あなたの原義としての経験」から距離を置こうという作戦です。
言葉は便利ですが、喧嘩や誤解、嘘の温床でもあります。言い換えを考えることは、「あなたなりの"愛"」を定義し直すことにも繋がるかも、と思います。あなたが受けてきたいろんな体験から、「あの人の、あの時の行動」「あのテレビで言ってたセリフ」「あの時見かけたエピソード」、そこから相応しいものを抽出して、「愛の名の下に行われたが、相応しくないこと」を排除し、残る何かに、名を付けてください、「愛」の替わりになるものを。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

質問者からのお礼

邦元様
ありがとうございます。
もっと沢山のことに「ありがたい」と思える様になりたいです。
今の自活生活の中で、ありがたいと思うことはあります。しかし、もっと自然と感謝の気持ちが湧けばいいのに、と思います。とても苦しく、そんな心境に落ちている自分が情けないです。

…器が小さいながらも、何かできることはあるのかもしれませんね。
経験してきた・与えられてきた以外のことで、自分が元気になれることが。これから自分を主体にしていけるきっかけが、もしかしたらあるかもしれませんね。
クリエイティブなことや、五感を十分に潤すことに辿り着くことを当面の目標にします。そこに辿り着くまでに、挫けそうになっても、頑張ってみたいと思います。
お言葉、ありがとうございました。

佐藤良文様
言外の意味を完全に汲み取って、更にアドバイスを頂きまして、ありがとうございます。
おかげさまで、自分が愛に執着していること、母との体験が原義としての体験である事に気づく事ができて、気持ちが少し明るくなりました。
「愛とは理解です」と、原辰徳さんが昔テレビで言っておられ、気に入っていました…。それも、今後は理解して頂いた、で止めておいてみます。なぜかむやみな言葉遊びを減らすと、ありがたみを感じる様な状態になれています。
脳を使いすぎないって、こういうことなのでしょうか…。
(実は、文章を書いている時に、我ながら気持ち悪さを感じていました。全部を愛情、と表現してしまうから、何だか嫌らしい感じになっていたのかもしれません!その落ち込みも解消しました。)
ありがとうございました。

…【私なりの"愛"・「愛」の替わりになるもの】は、「理解することプラスα」なのかもしれません。それでいいのかもしれないと思ったら、大丈夫と思えてきました。

だからこそ、もっと勉強が必要なんだな、とも分かりました。

丹下覚元様
お教え頂きありがとうございます。
高いハードルですが、自分を愛でみたせるように、少しずつ実行してみなくては。
お教え頂いた愛は、言葉にすると上品な感じですね。でも、今のろくでもない環境には、見返りのないものが沢山あるのだと、気付きました。
自分にとっては足りない、なんて酷いことばかり考えていました。そのくせ、自分は自分の事しか考えていませんでした。
足元を踏みしめられて良かったです。
ありがとうございました。

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