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監禁事件

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痛ましい心揺さぶられる事件が起きて動揺しています。多少違いますが似ていたからです。17年間も精神疾患があって暴れるからと娘を監禁した事件です。たった2畳の冷暖房のない部屋で凍死させられた娘さん。簡易トイレも不衛生で臭いもしたと思うし両親とはインターホンで会話(会話と言えるのかな?)、食事は一日1回。恥ずかしいから外にだせなかったそうですが。わたし的にはこれは殺人事件だと思っています。
この事件を知った時、私と同じめに殺された娘さんは合っていたのだなと悲しくなりました。私も、私をコントロールし思い通りにしようとした二親の仕打ちを思い出しました。でも二親によって命を絶たれてしまった娘さんですが天国にいったのです。今は幸せです。羨ましいです。今は天国(仏教では何と言うのですか?天国ってキリスト教の言葉ですよね)にいる娘さんが羨ましいです。
どうか、私の為にお祈り下さい。おこがましいお願いですが、百も承知しています。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

毒親からの解放

親と言えど人間性・理性を失った餓鬼畜生道におちた親は親でなし、ひとでなしです。
そんな親からは精神的に分離をするべきです。
この世の人は誰も親を得らえません。
親は選べませんが、親に対する接し方、関わり方は選ぶことができます。
かりに親から影響を受けても、その呪縛からは解き放たれることはできます。
それは死ではありません。
生きながらに自分が自分の親に対する心から自由になることです。
あなたはあなたの親とは違う存在です。
今も親のことを思い起こして、自分自身が虐待されたことなども思い起こして心が苦しくなっておられることと思います。
ですが、それはあなたが今思い返したことなのです。
今思い返したことを相手に心がネガティブな関わり方をしたのです。
あなたが自分の心の中で、自分の思ったことに対してネガティブなおこい方をした、ということが言えるのです。
人間は坐禅、禅定という心のしずまりによって、それらの思いから解き放たれることができます。
毒親からの解放は、あなた自身の思いからの解放でもあるのです。
大切なことなのでもう一度申し上げます。

自分が親に対して思ったことを相手に、その思いに自分流のネガティブな思いを添えれば、今の現実を見失って記憶やフラッシュバック、トラウマに苦しめられます。それらの思いは内側から沸き起こった親に対する思いに対して、負の思いを添えることしかできない心理でもあるのです。

親とのかかわり方は選択できます。
あなたの心の中で現れる親に対する思いに対するアプローチも選択することができるのです。
親からの支配、親の呪縛からの解放は、自分の負の思いから抜け出すことなのです。
自分の負の思いに屈することなく、明るい光の照らす方へ自分自身をそっと導いてあげてください。
生きながらに自分を救うのです。
あなたの心は親は支配することはできません。
あなたの心は自由なのです。
あなたは自分を救う自由を自分の意志で選択することができるのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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