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先月、人身事故を起こしてしまい相手が亡くなってしまいました。

回答数回答 3
有り難し有り難し 35

故人に対して出来る限りの事を、したいと思っていますが何をしたら良いか悩んでいます。
糸口でも見つかれば良いかと思いますので、お願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それは事故である

確かに亡くなったご家族は大変悲しんでいらっしゃるでしょうし、もしかするとあなたのことを責めるかもしれません。正直今、何をしても受け入れてもらえないかもしれません。香典を届ける。謝罪する。お線香すら上げさせてもらえないかもしれません。

しかし、間違えなく言えることは、あなたはわざとそのようにしたわけではありません。ご家族にそのことは言えませんが、事実として言えることでしょう。法律的な償いはしなければいけないでしょう。

そしてその後、あなたができることは、「しっかり生きる」ことです。もし、お墓参りなどさせてもらえるのであれば、お参りすることもあなた自身が救われる道の一つだと思います。
あなた自身も苦しみから救われなければなりません。そうした意味でも是非仏道を学んでください。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

相手には何も望まず誠意をもって詫びる

何かすることもすることです。
何もしないで慎むこともすることです。
何かしなくては気持ちは出てきて当然であろうと思います。
誠意を尽くして、詫び続け、相手に許される事を願うのでもなく、残された遺族の方々にその人がいたらもっと助かっていたであろうことを差支えないように、勤められることです。
もちろん、相手方の意志もあるでしょうから、様子を見ながらですが。
大事なことをお伝えします。
「申し訳なく思う、感じること」と、「自分を徒に責め続けること」とは違います。
確かにしてしまったことは非は非です。
ですが、そのことで自分を呪うかのように責めてしまってはあなた自身も傷つけることになりましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

何もかもを捨てる

こういった場合、あなたの人生もめちゃくちゃになるもの。あなたも事故の被害者なのです。
本当にあなた、お辛いでしょう。
心境察するにつけ胸が痛みます。
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実は僕のように仏門に入るものは罪深い人間。仏様に睨まれながら生きている。
あなたも仏門に入るのが一番です。
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お相手、お相手のご家族からあなたは
「命」を奪った。
ならば、あなたも何もかもを捨て去り、失って、そして僧としてあなたの悲しみで人々を救う大仕事をするのです。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。遺族側のご厚意で、お線香はあげさせてもらえています。

お返事ありがとうございます。非は非と認め、今は故人が何をしてほしいかを、考えて行動しようと思っています。

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