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御免なさい。

回答数回答 1
有り難し有り難し 63

あけましておめでとうございます。
全部求めているのかもしれません。他人の優しさ、厳しさに私は慣れていません。求めているのに、いざ聞いたり接したりすると、戸惑ってしまう扱いにくい人間です。
ここは私にとって最後の砦です。もっと大事にすると自分に誓いました。無礼をお許し下さい。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もっと単純に生きましょう。

苦しみが続いていく人というのは、普段の生活においてもここhasunohaにおいても「自分の思ったことばかりを優先している人」です。
そもそも大事なのが仏教なんかよりも坊主の説法なんぞより「自分」なのです。
それが、そもそものここでの矛盾でしょう。
分かりやすく言えば、医療の世話になっていて薬を飲まなければいけない状況なのに、医者に文句言って薬を飲まないようなものです。自分の体を医療に委ねなければいけないのに、薬も飲まずにいるようなものです。
坊さんたちから
①助言をしてもらったとしても
②キャッチする前に
③「こういうことは言われたくない」「こういう回答は気に食わん」「丹下なんぞに言われとうない」「100%言い当てているとは思えない」ということを思って、
①出会ったこと/言われたことに対して
②ストレートに受け止めるということを優先せずに
まず、自分優先なのでしょう。
③自分が思ったことを優先して自分の中で考えられてくることばかりを相手にしてしまっているのです。
ここに向きあえなければ、今後も変わっていかないということではないでしょうか。
実生活でもそうなのでしょう。
ご主人、犬、出会ったことに対して、そこで自分が思ったことの方を優先してしまうから
新しい人生観や新しい価値観、新しい心が受け止めることをせずに打ち返しているのです。
そういう姿勢ですと、誰が何を言っても「バットで打ち返す」だけです。
人の話をきく、人の話を受け止める、人の助言をわがものにするということは、まずそこに「自分を」優先させてはならないものです。
あなたが助言をして変えたい人、変わってもらいたい人、良くなってもらいたい人がいるとします。
ところが、その人が何を言っても一言一言揚げ足取ったり、メインで伝えていることを聞かずに「言い方が気に入らない・言葉遣いが気に入らない・態度が良くない」ということで反発して、肝心の「メイン」を受け止めもしなかったらあなたもやれやれと思うはずでしょう。
これをご覧になられる方は、この回答は皆さまに向けられているものだと思って受け入れて頂ければありがたいと思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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