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自らの意志をもって動き出せるようになるには

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有り難し有り難し 22

私は最近、自分のこれまでの生き方について、自ら働きかけて何かをしたことがない、ということに気づきました。

周りの状況や環境に流されて、今に至っています。
今の仕事も、もともとは勤め先が倒産したので、そのまま顧客を引き継いで独立したようなもので、意志を持ってそうしたわけではありません。

家族にしても、自らイベントなどを提案するわけでもなく、私はただ単について行っているだけの状態です。

会社や家族に、こんなことでは良くないということは、頭ではわかっています。
しかし「何をしたいか」と考えると、何も出てこないのです。自分でも人格異常なのではないかとさえ思います。

「何をしたいか」と意志を持って動き出すことはできるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

求めに応ずる生き方

あなたはまわりの求めに応ずるという
生き方が出来る人。

素晴らしい人生ではないですか!

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

今までそれで済んできた。

 「自ら働きかけて何かをしたことがない」との事ですが、日常のレベルで見れば、そんなことは無いはずです。注文しなければamazonだって配達しないですよ?
 考えるヒントとして、あなたを取り巻く環境(特に家族関係)はどうなのでしょうか?「自ら何かを起こす必要の無い」環境、(実際はどうあれ)そうあなたが感じている環境の中にいるから、今のような在り方になっている。それは充分あり得ることです。
 例えば、ご両親が健在で、「子ども」でいられる。座っていれば食事も出て、風呂も洗わず、ゴミ出しもしない。それが「貴方の当たり前」になっている、ということかしら?
 しかし、「当たり前」は変化し崩れていくものです。誰もが歳をとり、老化していきます。その否応ない変化にもまれ、貴方はいろいろと決断してきた筈です。
 「主体的」という言葉がピッタリ感じられるか分からないのですが、「会社を自ら興す」「家族イベントを企画する」だけが主体性ではありませんよ。「判断」は主体的な活動だと思います(人に任せる、も「任せる」ことを判断しています)。
 なので、このままで「何がいけない」と感じているのか、私には分からないのです。「何となく、いけない」でしょうか?「人格異常」と仰っていますが、単なる「いまの環境への対応の結果」のような気がします。人格に異常も正常も無い。ただ個別的なだけです。
 つまり、問題とするならば、あなた個人ではなく、取り巻く環境とセットで考えないといけないと思うのです。
 なので、「何か変化を起こしたい」ならば、住まいや家族関係の見直しがよいと思います。一人暮らしとか。ただ恐らく、いろいろとリスクを伴うでしょう。慣れていないから。自分だけが変わろうというのは、相当大きなエネルギーを要することだと思います。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

今までの自身の在り方への疑問が 今後の歩みに変化をもたらす

masさん

この問をハスノハになげかけてみたらと
誰かに言われましたか

この問はあなた自身があなたの自覚を超えたところで
なげかけたのではないでしょうか

今までの自身の在り方への疑問が
今後の歩みに変化をもたらすのではないかと思います。

色々試してみましょう

これは自分のしたいことではないと
分かることも大きな一歩ではないでしょうか

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おきもち

したいことはなくてもいい

人は自分の思いで生きているわけでもないし、自分の思い通りの人生になることもありません。
努力が身を結ぶということはあるかもしれませんが、0から100まで思い描いた通りなんてこともありません。

仏教は縁起を説く教えです。
縁に触れて物事が起きているだけです。それを、我を前に出さず受け入れ生きていくことが大切なのでしょう。

この仕事がしたい。この仕事が嫌だと、思えなくても、十分なのではないでしょうか。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

まずは真似から

人間いきなりやろうとしてお出来ないことはあるものです。
お笑い芸人もボケとツッコミを変えるとうまくいかないことがあったりと、向き不向きがあると言います。
分からないことは、分らないでいいのではないでしょうか。
分からないから学ぶのです。
我々僧侶の世界でも、だれでも独学で悟りを得られるかと言えば、出来ません。
だから、真似び、学ぶのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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