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過去に襲われる

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有り難し有り難し 30

時折、過去を思い出し途轍もない不安感に苛まれます。
その過去とは2つあります。

1.小学校の学級崩壊。
5、6年生のとき私のいるクラスは学校としての機能をしていないほど荒れ果てていました。生徒同士はもちろん教師に対しても。常にいじめが隣り合わせにあり、月ごとにいじめの対象者が変わっていました。そのためいじめられるのは明日は我が身という状態でクラスメートを一人も信頼できず。いじめに加担したくなくても加担しなければ、生きていけない。楽しい学校生活なんて無縁でした。

2.家庭崩壊
ちょうどその頃から私は家族とも会話をしなくなりました。また自分がいじめの対象になっても家族に打ち明けられず、ボロが出ないように蓋をしておりました。現在私が話せるのは母親のみです。それでも大切なことは何一つ話しません。

愛や温もりを感じながら育ちたかったです。
しかしながら今の自分の生き方は好きなので、過去を変えたいや無くしたいという気持ちはありません。それでもトラウマのようにこの記憶・思いたちが私を襲ってくることがあります。もう忘れたいです。幸せだけと向き合いたいです。助けてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去も未来も今の一念

我々が過去を思い出す時というのは必ず今を用いています。過去を思い出せるのはいつやっているのでしょうか。今でsy…(以下略)
過去に苦しむことの本質というのは過去のシーンを思い返して、そこをさらに今の自分が良し悪しをつけて評価意識が苦しみを生むのです。心の中で過去の出来事という記憶に対して今の裁判官・審査委員がケチをつけているような感じですね。私自身はどんなに痛ましい過去でもコヤシにしています。ハスノハ、ハスノハナとて泥というボンノーもコヤシにしとるだす。人生はいろんな経験があります。その経験を消化してより良き心の花咲かすためにコヤシに転化させてみてください。コヤシにするというのはあまり素敵な表現とは言えませんが、薬にする、学びにする、軌道修正のためのきっかけにする。私は人にいつもこれを進めています。それはそれがとても価値のあることだからです。なかなか分かってくださる人はいませんが「菩提心をもちましょう」。菩提心とは悟りや心の成長、心の豊かさを求めることです。求める心をおこすだけで、人の脳みそは変わるのです。どんな苦しみも困難も多くの人はそこで大体ジエンド思考に陥るものです。その過去はもう終わって今の川の流れがあるのです。
今の川の流れに身を任せていけば過去に縛られ苦しむことはありません。仮に思い返したとしてもそれは脳内の映像。実物ではありません。実物ではないもの、過ぎたことを今から何とかしようとしても変えられません。志があったらその時の担任の先生にお礼の手紙を送ってみてはいかがでしょうか。当時学級崩壊状態であったけれどもそんな中でも私たちに力を注いでくれたことに関して御礼を申し上げるのです。
自分の生き方が正しいと自分で思っていても苦しいということはその生き方はどこかが自分自分しすぎて苦しいのです。どこかに自分濃度の濃いところがあると思います。意固地にならずにそこを向き合えばあなたの言うところの幸せに向き合うことになります。人生には自分に都合のいい幸せはないものです。幸せになるには私が私の私による自分自分した考えで幸せになろうとすると絶対幸せにはなれないのです。それはかつて私も幸せらしいものを追い求めていた時に気づけたことです。私が私が…という自分の考えにコダワリをなくすことです。すると縛っていたひもがとかれて安心につつまれるものです。なんとなーく感じてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

この場を活用なさってみて

拝読させて頂きました。
そうですね、あなたが願うようにそのように愛情や人々のぬくもりの中で成長していきたいと思う、それが本心ですよね。

あなたのお気持ち痛いほどに分かります。そのような過去があるならば余計そうお感じなさってしまうでしょうからね。

よろしければこの場においてあなたのお気持ちをゆっくりとお話なさってみて下さいね。あなたの今まで抱えていたお気持ちをゆっくりとお伺いさせて頂きたいと思います。
私でも、或は沢山のお坊さんがあなたのお話に耳を傾けてご助言頂けると思います。

今あなたの心で抱えているいっぱいの思いをここでお話なさってみて下さい。

そしてその中であなたにお伝えできること助言できることもあると思っています。

過ぎ去った過去はかえられませんけれどもこれからの未来や志や生き方は大きく変わっていくことができるのです。

あなたがこれからに未来素晴らしい出会いに恵まれて多くの方々と共に愛情を注ぎあい慈しみあいながら心から幸せに生きていかれます様にと切にお祈りさせて頂きます。

どうかこの場所や多くの方々とのご縁を大切に有効に活用なさって下さいね。

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おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

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