生死観について

私は幼稚園の時からただ漠然と死にたいと願っています。今までは本当にただ漠然とした願いでしたが最近になり、うたた寝をするような穏やかな死を望むようになってきました。

ただこんな願いは家族には到底打ち明けることはできませんし、万が一打ち明けたとしても怒られるだけです。怒られないにしろ、まだろくに人生歩んでないからそんなことが言えるんだといわれて終わることでしょう。

私は死というもの事態避けようのない終着点であり、そこまで悲観するものではないと思っているため、余計にそう願っているのでしょうが、皆様方は死についてどのように思われていますか?

生きる意味
有り難し 26
回答 2
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。
回答僧

大慈

考えて答えを出すのではなく、本能に学ばせてやることが大切

生死のことは頭で考えるようなものではありません。

どうやら人は生まれながらに死を恐るわけではないようです。大怪我や事故をしたり、他人の死を目の当たりにすると本能のスイッチがカチッと入るように、死を恐れるそうです。だから20世紀の最後の四半世紀ごろから自死者の数が問題になったのと、ちょうどその頃から死を隠したり綺麗に見せるようになったことと関係があるはずだという話もあります。

昔は死というものが身近で、今みたいに隠されたり綺麗な所だけ見えるようになってませんでした。火葬ひとつとっても地域の人が薪で大きな火を焚き、夜通し「あ、頭が落ちた…」「今度は脚が落ちた…」なんて番を
しながら焼いていたわけですから。私はそんな世代ではありませんから当時を知る人から聞いた話ですけど、聞くだけでも生々しい現場ですよ。
今みたいに炉に入れたら分厚い扉が閉まり、ハイ時間まで待合室でお食事してて下さいなんてモンじゃないんです。今じゃそれどころか綺麗な斎場で葬儀だけ参列したら、お顔さえ拝まずに後ろの方から棺だけ見て帰ってくるような人も少なくないでしょう。それだけ死というものが感じ取りにくい時代なんです。

そんな今の時代でも、例えば「親の葬儀を終えて帰ってきたところですが、性欲がムラムラしています。私はおかしくなってしまったのでしょうか?」というような悩みを持つ人がしばしばいらっしゃいます。これは本能的に死を実感したことで「子孫を残さなきゃ!」と身体が勝手に反応するもので、ヒトとして自然な反応です。

実はそんな瞬間、頭では分からない部分で本能的に生命を学んでいるんです。

辛いことがあって死にたいな…と思って包丁を握った瞬間、背筋がゾクっとして脚がすくみますか?私はします。たぶんそういう感覚が分かる人は、死ぬまいとする本能のスイッチがONになっているのでしょう。

お葬式というものは本来、そんな生命の学びを地域で共有するという一面もあります。ご近所さんやご親戚の葬儀にできるだけ繰り返し参列させていただきましょう。

4日前

全ては因縁次第

とっと様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「死は悲観するものではない」

拙生もそのように考えております。むしろ楽しみに致しております。

ただ、楽しみであるものの、やはり次の行く先は気になるものでもございます。

それもこれも全ては因縁(原因と条件)次第。

次の赴きへと向けた善い因縁を積むことができれば善い赴きに。

残念ながら悪い因縁となれば、悪い赴きに。

善い赴きへと向けて、そのための善い因縁が説かれてある教えが仏教でございます。

是非、仏教を修習して頂きまして、共に善き赴きへと向かって参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

3日前

質問者からの有り難し - お礼

自分以外の人の意見を聞けてよかったです。ありがとうございます。

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