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完璧主義を無くしたい

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有り難し有り難し 24

いつもご回答ありがとうございます。

私は今、完璧主義に考えてしまう自分に悩んでいます。
白黒ハッキリしたい思いが強くて、自分の事になると尚更です。
例えば、昨日より少しでも顔が浮腫んでいれば顔や体を隠したり、何か質問や意見を求められても、100%の自信がない限り答えや意見を言えません。
そして、どうしても今以下の自分を他人に見せたくなくて、自分を守りながら自分に対する他人の様子を伺いながら生きています。
そこまで高い地位にいる訳でもないのに、自分が可愛くてすぐ逃げるし守りに入ります。人に褒められたりすると必ず「そんな事ないです」など否定から入ってしまい、お礼も言えませんので、自尊心も低いのかな、と思います。

一体どうしたらもっと気楽に生きられますか?
息の詰まる不安ばかりの毎日に、疲れてしまいました。
どうかご意見お聞かせください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

マイルールというアプリをアンインストール。📱

人間みんな自分のことばっかっス。そりゃそーです。自分のアタマは自分のことばっか考えているからです。ツイッターの炎上やSNSのコメントなんかも人によっては自分に言われているかのごとくにカン違いして問題にします。それが多くの人間というものです。そこでそれを学びにすることです。ああ、人間というものは他人様のことですらわが身に引き寄せては自分のことであるかのように問題にする。
完璧主義とはいいかえればマイルール主義。
慈善の自分ルールの決め事、設定がONになっているのです。
たとえば自分のルールを押しつけがましく人にも要求する人はすぐに腹を立てます。
「私はこうしたいのに」「オレはこうしたかったのに」という気持ちが先立って事実をみません。自分の思い通りにならんと苦しいのです。自分ルールこそそこにプチ完璧主義を生み出すイランアプリなのです。
自分に縛られないためにもマイルールという事前設定をOFFにしましょう。
「彼・彼女はきっとこうに違いない」
「今日もどうせきっとこんな感じだろう」
「ああ、またいつものあれか…」
こういう思いもはじめの一歩目からして思い込みなのです。
思い込みは事実をねつ造、脚色します。
ホメられたりしたときには無駄な謙遜よりもありがとうございますから始めましょう。すみませんというべきところは全部ありがとうございますに変える勢いで感謝の気持ちを前面に出すことで人とのかかわりが実感できてツナガリやカカワリやゴエンという関係性の糸がこの寒い社会にぽかぽかと暖かさを生み出してくれるものです。
何事も善意で受け止めましょう。
これを読み終わった後の自分の反応に気を付けましょう。つい打ち返しや、他のことや、それから関連されてくるものに気持ちを持っていかれないように翁キャッチャーミットになったつもりでバットを捨てて受け止めから始めてみてください。何かを受け止める時、そこには混ざり物はありません。また、他の所に向かおうとする必要も本当はないのです。ただ受け止める時は本当に受け止めてみてください。人というものは常に何かしなきゃいけない、何かしなきゃいけないという思いに追われているものです。まずはそういう思いにも追われないようにしてください。なぜなら、それもマイルールなのですから。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
頂いたお言葉通り「自分ルール」に縛られていました。
今日1日、言葉や考え方に気をつけてみましたが、なかなかクセは直すのに時間がかかりそうです。
それでも少しずつ、まずは「ありがとう」から言えるように気をつけていきたいと思います。
ありがとうございました。

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