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天命を全うすることとは

回答数回答 2
有り難し有り難し 22

 初めまして。
 宜しくお願い致します。

 私の81歳になる母が、入院生活を余儀なくされ 
 2年がたちました。
 状態としてはおかげさまで落ち着いております。
 しかし 状況的に自宅に帰るというのは不可能なため 
 ずっとこれから
 病院のベッドで寝たきりの状態で
 
 自分で身体を動かすこともままならない
 
 鼻からチューブをつなげての経菅栄養で食べることも
 ままならない
 水をのむことも

 気管切開で喉にもチューブがはいっているため
 話すことも出来ない

 そのような状態で   ただ ただ天命を全うする
 ために
 がんばってくれている母の姿を見ると生きることの意味
 について 考えてしまいます。
 
 きっと何かを私に伝えようとしている
 のかなと思いますが   

 なかなか遣りきれなく切ない毎日です。
 


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたが可哀想になってしまっていることに自覚を。

あなたが「可哀想」になっている。
これはどういうことかと申しますと、確かにお母さんは可哀想な状態です。
ですが、そのお母さんの状況をご覧になられたあなたが沢山の負の憐れみ感情ガスを多発させているのです。
今お母さんはお母さんなりに頑張っているはずです。
現代医療の最善の方法で治療を受けている状態であることは確かであるはずです。
筆談でもいいでしょう。
手を握って暖かさ、ぬくもりを伝えてみてください。
元気になってと頭や顔を撫でてください。
それがお母さんの元気につながり、あなたが愛を注ぐことでその愛の力で自分自身もがその愛のの力に包まれます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

それでも活きている

男女の違いについて、子を産めるのが女性という方を見たことがあります。
ならば私の妻は女性ではないということになります。

生きるとは命を活かす事です。

冒頭のような考えだと、病人は生きているとは言えなくなります。しかし、
そのような状態を以って人生を教えていらっしゃる。お母様は確かに生きていると言えるのです。

人生を考えてしまう。考えて悪いことはありません。もっともっと深く考えてください。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

ご教示くださいまして
ありがとうございます。

くじけてしまう日々も
沢山ありますが 笑顔と
愛で包んであげられます
ように励みます。

ご教示くださいまして
ありがとうございます。

改めて頑張ってる母に
敬意を払い 感謝の心を
もって日々励みます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ