運命には逆らえないのでしょうか?
いつもQ&A拝見させて頂いています。「なるほど」と思う事が多くとても参考になっています。
ところで、「運命」って存在するものでしょうか? 「運命」だからって言葉を使いますし、自分に言い聞かせる時も「運命」のせいにする事って結構多い気がします。
人生において、原因がありそして結果が付いてきます。結局因果そのものが運命かな?って思う事が度々あります。
悲惨な事故や事件を見ると、悪人だから遭遇したと言える人は少ないと思います。この日この時この場所に居なければ遭遇しなかったはずです。しかし残念ながら遭遇してしまった。「運が悪かった」では済まないと考えます。結局、生きている以上常に物事や行動を選択し原因を作り、何らかの結果が出て、「運命」と諦め落ち込んだり「運命」に感謝し喜んだりして。
支離滅裂になってしまいましたが、ご住職の方々が考える「運命」とはどのようなものでしょうか?逆らえる事は出来るのでしょうか?
私自身は抵抗する元気もないので、万事を受け止め現世に生がある限り前に行くしかないと思っています。辛くきついですが、これが「運命」なら仕方ありませんから。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
この世に運命はない。事実、出来事だけがある。
運命論はたんなる世俗の思想にすぎません。
何でもかんでも「運命」という便利な言葉で締めくくるというだけのテキトー論です。
物事を短絡的に考え、まとめ上げるだけです。
猫として生まれた、カラスとして生まれた、転んだ、怪我した、これも運命。
朝食はサンマだったのも「運命」、昼がコンビニ弁当なのも「運命」、夜は刺身でこりゃ「うんめえ」。
何でもかんでも「運命である」でまとめてしまえば元も子もありません。
ですが世間では、そういう考えがウケる。ウケるとは何か。ウケ入れられやすい、分かりやすい、面白いということであって真実ではありません。
検索件数、視聴率が多いイコール真実ではありません。
真実は、別のことろにあまり知られずして存在するものです。
さて、このたびのご相談ですが、あなたの言われるところの運命を、すべて「ひとつの出来事」「一過程」「一経験」と置き換えて再度お考え直しをお願い申し上げます。あなたの言われるところの「運命」にはどことなく終局的結果、これでおしまい、デッドエンド的な響きを含んでおられます。
「ああ、おしまいだ」「ああ、無情だ、かなしい、せつない」
そのままでは精神衛生上、あなたのために良くありません。
心の回復のためにも以下を何度もよく読み返してださい。
○人間は、物事に終局、終焉、おしまい、というラベルを貼り付けると、心が停滞してしまう。
○川の終局は滝ではありません。滝は流れ落ちますが、海をめざし、雲へと昇華するものです。
○あなたのお悩みは、ここでは公開されるべきものではなかったかもしれませんが、どうか、その出来事で終わりなんだ、と決めつけずに「これは海を目指す、一つ目の滝」「海にたどり着くためにもっと大きな川へ合流している状態」とお考えいただき、明るい未来へのもう一歩を踏み出してください。
○どんな過酷な事実でも、受け入れると受け入れざるとに関わらず、すでにそこで起こって、そこでもう終わり果てている。
○そうか、もう、あれは、あの時点で、事実と時の刻みと苦しみともに、もう終わったのだ。
○終わったということは、次の新しいことの始まりだ。
さあ、もう川は、流れだしました。
はこぶ、はこばれる
きよまささん、こんにちは。
「運命」と「宿命」。
「宿命」・・・地球の、この時代の、日本の、熊本県に宿された命・・とみることができるでしょうか。
「運命」・・・こうしてhasunohaに質問なさる命・・とみることができるでしょうか。
わたしたち自身、自分の命を運んでいるか。流れに運ばれているか。
・・見方によって変わるようです。
きよまささんも、”万事を受け止め”つつも、”現世に生がある限り前に行くしかないと思っています”とのこと。見方によって変わる、両方ですね。
向かい風を利用して飛ぶ鳥となるか。風をきらい枝をはなれない鳥となるか。
どちらも危険はつきまといます。
でも、風に身をまかせないと空を飛べないように、私たち人間もある程度まかせないと生きていけないでしょう。
わたくしごとですが以前、パラグライダーを経験したとき。鳥になったような気がしました。風になったような気がしました。
ただし・・・風を利用しようとすると、うまくいきません。運命を運命とも思わず。宿命を宿命とも思わず。生きるのみと思っています。
・・・「運命」は、その材料にすぎません。
縁(条件)が大事!
きよまささん、こんにちは。
「運命」には逆らえないかとのことですが。
お釈迦さまが『出曜経(しゅつようきょう)』で、「(運命とか神さまとかではなく)自分の意思で人生を歩んでいきたい」とおっしゃったのと聞いたことがあります。
「因縁」というのは、原因(因)と結果(果)だけではなく、条件(縁)がそろってはじめて結果(果)がしょうじるというものです。
どんな原因(因)があろうとも
(たとえ孤児であろうとも)
条件(縁)がそろえば、末は博士(大学教授)か大臣(総理大臣)か。
ただ原因(因)が悪いだけでは、結果(果)として悪人にはならないものです。
また仏教では「善因楽果 悪因苦果」という言葉があります。
「善い」ことをすると心が「楽」になり、「悪い」ことをすると心が「苦しく」なるのです。
本人が良くても、周りの人間の記憶には残ります。
嫌なことをされた人は、忘れていないものです。
そうしていろいろな人から見放された人は、はたして幸せになることができるのでしょうか。
「運命」ではなく、「人柄」だけではなく、その人のすべての「善行」がそのひとのその後に影響を与えていくのではないでしょうか。
お釈迦様が仏教を創造した理由
お釈迦様がなぜ、仏教を創造されたか、それはカースト制度からの解放である。当時、インドはバラモン教の下、カースト制度で人間が分けられておりました。お釈迦様はそのカースト制度で苦しんでいる人々を救いたいがために仏教を興した。六道輪廻はもともとはカースト制度であり、そこから解脱(解放)するにはどうしても新興宗教を創り、人々を自由にするしか無かった。
「生また所や皮膚や目の色で一体この僕の何が分かるというのだろう♫」私の若いころ中学生のころでしたか流行ったブルーハーツの『青空』という曲です。この歌にもあるように人間は生まれたときに運命が決まるのではなく、生きてく中で決められるものである。そうでなくてはならない。根本的に仏教は運命を否定する宗教であると言っても過言ではないのである。良い悪いも後々解ることで今この瞬間では判断できない。
それでも、どうしようもなく困っている人々もいる。そこは皆で救える環境を整えていくことが重要になります。「金のある人は金を出せ。力のある人は力を出せ。何もない人は元気を出せ。」これは東日本大震災の時にあるラジオのコメンテイターが言った言葉です。難しく考えると色々考えてしまいますが、自分に今何が出来るかが大切なのです。「一二三四」が大切なのです。
運命論・宿命論・決定論は仏教の「中道」に反する考え方
きよまさ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
運命論は、別名で宿命論、決定論とも同意と考えることができます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/宿命論
http://ja.wikipedia.org/wiki/決定論
既に増田様、釈理薫様もおっしゃられているように、私たちの世界は因縁果の流れにて成り立ってございます。
http://hasunoha.jp/questions/235
但し、上記問いの拙回答内容のように、その因縁果の複雑な無数の流れを完全に知ることなど私たち凡夫には到底不可能なことであります。ただ、この因縁果の理を考えることは、あらゆるモノ・コトには実体が無いという「空」を考える上において非常に大切なことになります。
さて、運命論に関しては、これまで下記問い拙回答内にて少しく扱わせて頂いております。
http://hasunoha.jp/questions/93
結論から申しますと、運命・宿命・決定論は、常見・断見のいずれにも陥る危険性が高くあり、「中道」を説く仏教からは、当然に退けるべき考え方となります。
例えば、これまでの、またこれからの輪廻の中でも味わうであろう苦悩の数々・・それも運命・宿命・決定付けられていることだと言って諦めてしまうのであれば、これからも何をどう生きようが、努力しようが、悪いことをしようが、善いことをしようが関係なく、何もかもがもう既に決まってしまっているとして、あらゆることが否定されて無意味となってしまいかねません。これは一つの虚無・悲観主義に陥り、仏教において退けるべき極端な考え方、断見となります。
この輪廻の苦海の中にいる限り、色々な苦しみは、早晩、大小関係なく、様々に幾度と無く経験することとなります。天災や戦災、不慮の事故などによる死(怨憎会苦・死苦)もただその苦しみのほんの一端のことでしかありません。
とにかく、これからの善い結果、善い趣きを望むのであれば、やはり、悪い行いは慎み、善い行いに励み努めていくことが必要であり、いつまでもこのような境涯に生じて苦しみ続ける輪廻の根本を断つために、悟り・涅槃へ至るための仏道を歩むことが望まれることになります。
是非共に頑張ってこの輪廻からの解脱を目指して参りましょう。
川口英俊 合掌
既にちゃんと逆らっています
原因があって結果がある、これが大前提です。そしてどんな状況であっても最善のものを選んでいくというのが仏教の考えで、私自身もそう思います。
他の世界宗教と仏教が大きく違うのは「修行」と「実践」がある点です。例え事故や事件に巻き込まれてもその中に光明を見出そうとしていくのですから、他宗教から見れば運命に逆らっているのかもしれません。
運命に逆らうというと大袈裟ですが、運命を努力を放棄する為の言い訳にしない、ということでよろしいでしょうか。きよまささんが「辛くきついけど、生ある限り前に行こうと思われてる」、そのこと自体が既に、修行と実践です。立派な事だと思いますよ。今の行動という原因が、必ず良い結果を生むはずです。
さからってみてください。
きよまさ様へ
釈様がおっしゃるように
私も運命はご縁であると思っています。
ぜひその運命、ご縁にさからってください。
その次には違うご縁がつながっていることだと思います。
文章の中で
「私自身は抵抗する元気もないので、万事を受け止め現世に生がある限り前に行くしかないと思っています。」
その気持ちが大切です。
このことを続けていればきっと素晴らしいご縁が待っていることでしょう。合掌
質問者からのお礼
御住職の方々のアドバイス本当に有難うございます。頭では分かっているのに、自分の気持ちをコントロールすることがいかに難しいか、自分の度量の低さをつくづく感じます。まだまだ御相談したいことあります。又宜しくお願いします。
いつも有難う御座います。質問はこれで2回目でした。かなり悲観的な質問で、暗い思いをさせて失礼しました。1回目(後悔の念・・・)2回目(運命に・・・)共に、気持ちの整理がつく期待した回答に感謝しています。後日あと1回質問をさせて頂く予定ですので、その節も宜しくお願い致します。益々の活躍を祈念しております。