hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

運命には逆らえないのでしょうか?

回答数回答 7
有り難し有り難し 193

いつもQ&A拝見させて頂いています。「なるほど」と思う事が多くとても参考になっています。

ところで、「運命」って存在するものでしょうか? 「運命」だからって言葉を使いますし、自分に言い聞かせる時も「運命」のせいにする事って結構多い気がします。
人生において、原因がありそして結果が付いてきます。結局因果そのものが運命かな?って思う事が度々あります。
悲惨な事故や事件を見ると、悪人だから遭遇したと言える人は少ないと思います。この日この時この場所に居なければ遭遇しなかったはずです。しかし残念ながら遭遇してしまった。「運が悪かった」では済まないと考えます。結局、生きている以上常に物事や行動を選択し原因を作り、何らかの結果が出て、「運命」と諦め落ち込んだり「運命」に感謝し喜んだりして。
支離滅裂になってしまいましたが、ご住職の方々が考える「運命」とはどのようなものでしょうか?逆らえる事は出来るのでしょうか?
私自身は抵抗する元気もないので、万事を受け止め現世に生がある限り前に行くしかないと思っています。辛くきついですが、これが「運命」なら仕方ありませんから。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 7件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

この世に運命はない。事実、出来事だけがある。

運命論はたんなる世俗の思想にすぎません。
何でもかんでも「運命」という便利な言葉で締めくくるというだけのテキトー論です。
物事を短絡的に考え、まとめ上げるだけです。
猫として生まれた、カラスとして生まれた、転んだ、怪我した、これも運命。
朝食はサンマだったのも「運命」、昼がコンビニ弁当なのも「運命」、夜は刺身でこりゃ「うんめえ」。
何でもかんでも「運命である」でまとめてしまえば元も子もありません。
ですが世間では、そういう考えがウケる。ウケるとは何か。ウケ入れられやすい、分かりやすい、面白いということであって真実ではありません。
検索件数、視聴率が多いイコール真実ではありません。
真実は、別のことろにあまり知られずして存在するものです。

さて、このたびのご相談ですが、あなたの言われるところの運命を、すべて「ひとつの出来事」「一過程」「一経験」と置き換えて再度お考え直しをお願い申し上げます。あなたの言われるところの「運命」にはどことなく終局的結果、これでおしまい、デッドエンド的な響きを含んでおられます。
「ああ、おしまいだ」「ああ、無情だ、かなしい、せつない」
そのままでは精神衛生上、あなたのために良くありません。
心の回復のためにも以下を何度もよく読み返してださい。
○人間は、物事に終局、終焉、おしまい、というラベルを貼り付けると、心が停滞してしまう。

○川の終局は滝ではありません。滝は流れ落ちますが、海をめざし、雲へと昇華するものです。

○あなたのお悩みは、ここでは公開されるべきものではなかったかもしれませんが、どうか、その出来事で終わりなんだ、と決めつけずに「これは海を目指す、一つ目の滝」「海にたどり着くためにもっと大きな川へ合流している状態」とお考えいただき、明るい未来へのもう一歩を踏み出してください。

○どんな過酷な事実でも、受け入れると受け入れざるとに関わらず、すでにそこで起こって、そこでもう終わり果てている。

○そうか、もう、あれは、あの時点で、事実と時の刻みと苦しみともに、もう終わったのだ。

○終わったということは、次の新しいことの始まりだ。
さあ、もう川は、流れだしました。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

はこぶ、はこばれる

きよまささん、こんにちは。

「運命」と「宿命」。
「宿命」・・・地球の、この時代の、日本の、熊本県に宿された命・・とみることができるでしょうか。
「運命」・・・こうしてhasunohaに質問なさる命・・とみることができるでしょうか。

わたしたち自身、自分の命を運んでいるか。流れに運ばれているか。
・・見方によって変わるようです。
きよまささんも、”万事を受け止め”つつも、”現世に生がある限り前に行くしかないと思っています”とのこと。見方によって変わる、両方ですね。

向かい風を利用して飛ぶ鳥となるか。風をきらい枝をはなれない鳥となるか。
どちらも危険はつきまといます。
でも、風に身をまかせないと空を飛べないように、私たち人間もある程度まかせないと生きていけないでしょう。
わたくしごとですが以前、パラグライダーを経験したとき。鳥になったような気がしました。風になったような気がしました。
ただし・・・風を利用しようとすると、うまくいきません。運命を運命とも思わず。宿命を宿命とも思わず。生きるのみと思っています。

・・・「運命」は、その材料にすぎません。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
臨済宗妙心寺派 陽岳寺 住職 1985年生まれ。 東京都江東区深川出身・在住。 大学卒業後、鎌倉の円覚寺専門道場で修行。 2010年に陽岳寺に戻り副住職となった後「ようがくじ不二の会」を立ち上げ坐禅会、ゲーム部、お茶の会などを企画開催。 昔からお寺はお手繋ぎをしていました。もっとご縁を結んでいただきやすくしたいと思い、結婚相談所を開所いたしました(門前仲町 下町結婚相談所)。 hasunnohaでは、微力ながら考えたこと、思ったことを回答させていただきます。

縁(条件)が大事!

きよまささん、こんにちは。

「運命」には逆らえないかとのことですが。

お釈迦さまが『出曜経(しゅつようきょう)』で、「(運命とか神さまとかではなく)自分の意思で人生を歩んでいきたい」とおっしゃったのと聞いたことがあります。

「因縁」というのは、原因(因)と結果(果)だけではなく、条件(縁)がそろってはじめて結果(果)がしょうじるというものです。

どんな原因(因)があろうとも
(たとえ孤児であろうとも)

条件(縁)がそろえば、末は博士(大学教授)か大臣(総理大臣)か。

ただ原因(因)が悪いだけでは、結果(果)として悪人にはならないものです。

また仏教では「善因楽果 悪因苦果」という言葉があります。
「善い」ことをすると心が「楽」になり、「悪い」ことをすると心が「苦しく」なるのです。
本人が良くても、周りの人間の記憶には残ります。
嫌なことをされた人は、忘れていないものです。
そうしていろいろな人から見放された人は、はたして幸せになることができるのでしょうか。

「運命」ではなく、「人柄」だけではなく、その人のすべての「善行」がそのひとのその後に影響を与えていくのではないでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

真宗大谷派(東本願寺)僧侶 東京品川 日夜山正徳寺 住職 主な活動 ・正徳寺声明会(しょうみょうかい:お経の練習と法話)月一回開催 ・こども囲碁道場 月一回開催 講師:日本棋院 王唯任五段 ・こども すみえ おえかき道場 隔月開催 講師:墨絵画家 本多豊國 ・「対話する夜」 月一回 都内のいろいろなお寺で平日夜にお坊さんを交えて対話する会 この他に、寺社フェス「向源」のお手伝いなど

お釈迦様が仏教を創造した理由

 お釈迦様がなぜ、仏教を創造されたか、それはカースト制度からの解放である。当時、インドはバラモン教の下、カースト制度で人間が分けられておりました。お釈迦様はそのカースト制度で苦しんでいる人々を救いたいがために仏教を興した。六道輪廻はもともとはカースト制度であり、そこから解脱(解放)するにはどうしても新興宗教を創り、人々を自由にするしか無かった。
 「生また所や皮膚や目の色で一体この僕の何が分かるというのだろう♫」私の若いころ中学生のころでしたか流行ったブルーハーツの『青空』という曲です。この歌にもあるように人間は生まれたときに運命が決まるのではなく、生きてく中で決められるものである。そうでなくてはならない。根本的に仏教は運命を否定する宗教であると言っても過言ではないのである。良い悪いも後々解ることで今この瞬間では判断できない。
 それでも、どうしようもなく困っている人々もいる。そこは皆で救える環境を整えていくことが重要になります。「金のある人は金を出せ。力のある人は力を出せ。何もない人は元気を出せ。」これは東日本大震災の時にあるラジオのコメンテイターが言った言葉です。難しく考えると色々考えてしまいますが、自分に今何が出来るかが大切なのです。「一二三四」が大切なのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

運命論・宿命論・決定論は仏教の「中道」に反する考え方

きよまさ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

運命論は、別名で宿命論、決定論とも同意と考えることができます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/宿命論
http://ja.wikipedia.org/wiki/決定論

既に増田様、釈理薫様もおっしゃられているように、私たちの世界は因縁果の流れにて成り立ってございます。

http://hasunoha.jp/questions/235

但し、上記問いの拙回答内容のように、その因縁果の複雑な無数の流れを完全に知ることなど私たち凡夫には到底不可能なことであります。ただ、この因縁果の理を考えることは、あらゆるモノ・コトには実体が無いという「空」を考える上において非常に大切なことになります。

さて、運命論に関しては、これまで下記問い拙回答内にて少しく扱わせて頂いております。

http://hasunoha.jp/questions/93

結論から申しますと、運命・宿命・決定論は、常見・断見のいずれにも陥る危険性が高くあり、「中道」を説く仏教からは、当然に退けるべき考え方となります。

例えば、これまでの、またこれからの輪廻の中でも味わうであろう苦悩の数々・・それも運命・宿命・決定付けられていることだと言って諦めてしまうのであれば、これからも何をどう生きようが、努力しようが、悪いことをしようが、善いことをしようが関係なく、何もかもがもう既に決まってしまっているとして、あらゆることが否定されて無意味となってしまいかねません。これは一つの虚無・悲観主義に陥り、仏教において退けるべき極端な考え方、断見となります。

この輪廻の苦海の中にいる限り、色々な苦しみは、早晩、大小関係なく、様々に幾度と無く経験することとなります。天災や戦災、不慮の事故などによる死(怨憎会苦・死苦)もただその苦しみのほんの一端のことでしかありません。

とにかく、これからの善い結果、善い趣きを望むのであれば、やはり、悪い行いは慎み、善い行いに励み努めていくことが必要であり、いつまでもこのような境涯に生じて苦しみ続ける輪廻の根本を断つために、悟り・涅槃へ至るための仏道を歩むことが望まれることになります。

是非共に頑張ってこの輪廻からの解脱を目指して参りましょう。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

既にちゃんと逆らっています

原因があって結果がある、これが大前提です。そしてどんな状況であっても最善のものを選んでいくというのが仏教の考えで、私自身もそう思います。

他の世界宗教と仏教が大きく違うのは「修行」と「実践」がある点です。例え事故や事件に巻き込まれてもその中に光明を見出そうとしていくのですから、他宗教から見れば運命に逆らっているのかもしれません。

運命に逆らうというと大袈裟ですが、運命を努力を放棄する為の言い訳にしない、ということでよろしいでしょうか。きよまささんが「辛くきついけど、生ある限り前に行こうと思われてる」、そのこと自体が既に、修行と実践です。立派な事だと思いますよ。今の行動という原因が、必ず良い結果を生むはずです。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

さからってみてください。

きよまさ様へ

釈様がおっしゃるように
私も運命はご縁であると思っています。
ぜひその運命、ご縁にさからってください。
その次には違うご縁がつながっていることだと思います。

文章の中で
「私自身は抵抗する元気もないので、万事を受け止め現世に生がある限り前に行くしかないと思っています。」
その気持ちが大切です。
このことを続けていればきっと素晴らしいご縁が待っていることでしょう。合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

「人の一生に寄り添うことのできるお寺」を目指しております。さまざまな御縁を基とし、より多くの方々に御参拝いただき、御本尊様などから御利益を授かることを願っております。 また、本来お寺の持つ機能として、「学び」「癒し」「楽しみ」などがあったとお聞きします。 あらゆる可能性に対して、日々精進しながら日々模索しながら、多くの方々との御縁がつながっていくことを願っております。合掌

質問者からのお礼

御住職の方々のアドバイス本当に有難うございます。頭では分かっているのに、自分の気持ちをコントロールすることがいかに難しいか、自分の度量の低さをつくづく感じます。まだまだ御相談したいことあります。又宜しくお願いします。

いつも有難う御座います。質問はこれで2回目でした。かなり悲観的な質問で、暗い思いをさせて失礼しました。1回目(後悔の念・・・)2回目(運命に・・・)共に、気持ちの整理がつく期待した回答に感謝しています。後日あと1回質問をさせて頂く予定ですので、その節も宜しくお願い致します。益々の活躍を祈念しております。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ