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自分自信に失望して、立ち上がれません。

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有り難し有り難し 25

どうぞよろしくお願いします。
文章の不味さはどうかご容赦ください。

私は、私という人間に失望しています。

私には思い描いていた人生がありました。
何か事業を立ち上げ、成功して儲けているというものです。
...はい、何も中身が無いんです。
そのことに気づくのに10年かかりました。

頂いた仕事をこなしながらずっと準備体操を続けてきた私は
ある時、これはいけるかもしれない!というものを見つけました。
ですが、結果が出ることなく全財産を使い果たして失敗に終わりました。

それだけならよくある失敗談ですが、私が苦しいのは、
必死で取り組んだのかと聞かれればNOだという事実です。

成功をおさめるための行動を出来ないヤツが、
成功する事だけを夢みている。
そんな事実に気づいてしまいました。

夢も、アイデアも、お金も、自信もありません。
この先何も成し遂げられないまま、残り数十年の人生を過ごすことに
堪らなく恐怖を感じてしまいます。

どうすればそんな自分を受け入れられるのか、
あるいは変えられるのか、

何かお言葉を頂けると幸いです。
ありがとうございました。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

夢から覚めた

こんばんわ。始めた、あるいは始めようとした事業がうまく行かなかった。内容も何も存じませんが、残念なことでございます。ただ恐らく、「その時のあなたにとって、トータルで」…ここまででいいだろう、という判断も含めて…精一杯されたのではないですか?
そのお陰で、夢から覚めたように気づきがあった・思い知ったのではないかと思います。
今は世の中どこを見ても「夢を持て、夢を持て」と囃し立てられます。あたかも「現実は見ないでね」という陰謀ではないかと思うほどです。これ、格差社会への不満を紛らすためではないか、と私は勘ぐっています。
ご存知かと思いますが、仏教の世の中の見方は、基本「この世には苦があるよ。苦とは、思い通りにならないことだよ」というものです。それを身を以て体験した。誰かに言われたのではなく。そう、「存じている」のと「体験した」は、まるきり違うことなのです。
その意味で、「生きていく」ことにおいて、一歩進んだということだと思います。
実はこれ、「必死で取り組めば必ず成功する、訳でもない」まで含んでいるのです。ではどうするか?
目指すところを変えなさい、ゴール設定が間違っているのだよ、ということではないでしょうか。
男子ですから「何事かを成し遂げ、名を残す」ことに魅力を感じるのは分かります。それを捨てられないなら、せめて道中を「足るを知る」で過ごせるとよろしいと思うのですが。いつ果たせるか定かでないゴールに目をやるのも結構です(やめられないでしょう?)が、その足元いかがですかと。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

金から一度自由になれた 自分の夢の縛りから自由になれた

あなたはまだ持っている。
一旦本当に手放した方がいいです。
そうすればアキラメがつきます。
まだ、持っているものを自分で感じるでしょう。
それを捨ててごらんなさい。
絶対に強くなれます。
手放して、奮起するのです。
手放せば踏ん切りがついて奮起できるのです。
何もなくなればたまることしかありません。
失敗も獲得です。
失敗も授かりです。
あなたはそれを授かった。
もう失うものが無くなった。
失う事も授かりだということをここで授かった。
だからもう、これからは授かることしかなくなった。(7回は読み直してください)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

人生をやり直し

新しい自分になるのがよいでしょう。地道に目立たず静かに生きる。
実力もなにもない者が生き抜く術は
それしかないのです。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

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