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通夜振る舞い

回答数回答 1
有り難し有り難し 13

おはようございます。
たびたびお世話になっております。

お通夜の後の通夜振る舞いの件です。
私が育った地域では、故人と本当に関係の濃い人間だけが参加しておりました。
一応、
通夜振る舞いの席を用意してありますので
、とお声がけはしますが、それは建前であって、実際に席に着くのは、親族、親族とも面識がある故人の友人知人。
通夜振る舞いは、遠慮して当たり前。
それが通常でした。
だって、お通夜は、故人に手を合わせに行くのだから。

しかし、嫁に来た地域は違うんです。とはいえ、お隣の市なんですが。

お通夜があるといえば、
義父の夕飯はいらない日。
しかも、がっつり飲み食いする気満々でいくのです。近所のバスに乗れない時は、義母か私が葬儀会場まで送っていくんです。

私には、故人に手を合わせにいくより、ご飯を食べに行っているようにしか思えないんです。
こんな言い方、悪いとは思うんですが、たかだか三千円か五千円のお香典で、飲み食いして香典返しまでいただいて帰って来るなんて、図々しいなぁと、感じています。

義父だけがそうなのか、義父の周りの人間みんながそうなのか。

以前、義祖母が亡くなった時、通夜振る舞い会場は人で溢れ、親族の席がなくなりました。フロアの外に急遽席を作ったのですが、それでも足りず、この家の嫁である、義母、私、義妹は席に着くことすらありませんでした。

慣れません、どうしても。
通夜に行く目的が、ずれている気がします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ズレてますよね

実際にそういう感覚でいらっしゃるのでしょう。
この世にはビックリしますが( ゚Д゚;)「マジかよっ」っていう感覚の人ってケッコー🐓いるんですよね。
業界㊙裏ネタをお話しますと、飲食業者さんからするとナぁ、沢山飲み食いしてくれる人は業者さんにとってはむしろイイ人なんですワ。(´◉◞౪◟◉)y-゜そりゃアンサン、寿司桶ちゅうのはナ。結構な金額設定になっちょるわけヤ。バクバク食ってくれた方が新しいモン追加できて追加注文でガッポガッポちゅうわけや。
おまけにナ、寿司桶は自分たちの分も残しといてくれるとお持ち帰りできるんで残しといてくれる人の方がパートさんにとっちゃイイ人ですわ。ちゃっかり自分たちの分をあえて出さないで取っとく業者も知っとりますでー。怖わ怖わ。他人のお金で食べるちゅうんやナ。
( ゚Д゚)🚬
葬儀社さんは沢山焼香客が来てくれた方が規模も盛大にできて沢山お金取れるんで大規模で葬式してくれる施主がイイ人ですわ。
ギフト業者さんも沢山来てくれた方がギフトが売れるのでその方がイイ人です。
(´◉◞౪◟◉)🚬
つまり、アンサンの義理のオヤジさんいう人はナ、そういう世の仕組みを知っとるちゅうことやナ。
だけど何か違いますわナ。
うん。何か間違うちょる。
そうです。
ここでいうイイ人とは「自分ったちにとって都合がイイ人」だけだということです。
マッ黒い考えですわ。
(´◉◞౪◟◉)
主役が自分になっちょるからいかんのでしょう。
宗教心が無いから。故人を敬うとかより、自分の為にみんなやってる。そういうのは心ないもんですわナ。
本当はお寺もそういう心ある業者さんと提携するんが一番エエのですが葬儀屋さんは飲食業、花屋さん、返礼品、みーんなつるんどるんですわ。大体がお互い「ばっくまーぢん」つながりでセットになっちょるわけや。👿
ま、あんまり裏のことは知らん方がワシのように業界病みせんから上手に知らんぷりするくらいの方がええでっしゃろ。ケッケッケ。(´◉◞౪◟◉)🚬 ☜誰?
そういうことが当たり前になっちょるこの日本を少しでもより良くするのが真の宗教心や。
あンたが宗教心を高く持つよりほかありまへん。試食は毎回するけど何も買わない人というのは売り手にとってもカンベンです。そこで問われるのは品位、人間性。
あなたはそういう事はおかしいと思える方。イイ人になってくんなまし。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答、ありがとうございます。
とてもわかりやすく答えてくださって頭の下がる思いです。しかも、とてもスッキリしました!自分が中心、まさにそうなんです!普段の生活でも、自分が中心、自分が主役。そこも、私が気に入らない原因の一つなんだなぁと実感しました。ありがとうございます。
私は、お通夜にはきちんと、故人のご冥福をお祈りするために、今までの御礼を申し上げるために参列し続けます。
決して、義父のようにはなりません。

最後に、御礼が遅くなり申し訳ありませんでした。生まれて初めてというくらいの大雪で通勤や雪かきに疲れてしまい、毎日があっという間に過ぎてしまいました。
ご回答、本当にありがとうございました。

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