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一緒に唱えてはいけないお経とは

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ある新興宗教の方に
南無妙法蓮華経の題目

般若心経なんて一緒に唱えては絶対ダメと言われました。
もちろん、南無阿弥陀仏なんてもってのほかと言われました。

その方は
南無妙法蓮華経の題目以外唱えるなと強く言われました。

私の家は曹洞宗で
私は南無釈迦牟尼仏と唱え
お経も本で勉強して少し唱えてます。

母は、昔ぶつしょごねんに入っていて
南無妙法蓮華経だけ唱えています。

どの新興宗教の方に言われたのかお分かりでしょうが
一緒に唱えててはいけないお経などあるのですか?

曹洞宗の道元の悪口まで言ってました。
とにかく批判されまくりました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お経を唱えるものだと思っている

お経を唱える。
唱えればいい。
唱えて満足。
唱えることで何か功徳にあやかる。
唱えることで救われる。
そもそもがそういう行為自体が冷静に考えてみておかしなことをしていると思いませんか。
あなたが古代インドに生まれてお釈迦さまと同時期に存在していたとします。
そこでお釈迦様の説法が行われていました。
すぐれた弟子たちはそのお釈迦様の「生のことば」「なまの説法」「ナマの教え」を実践に移して悟りを得られて生涯安穏に暮らせました。
ところがそこから遥か未來2500年後のJAPANという国では実に変なことが行われているそうでお釈迦さまもあなたも違和感を覚えてなりません。
「この人たちは原点はお釈迦さまであるのに、また悟りを得ることや、一生の安心を得ることを目的として仏の教えを聞いて実践することが本来なのに、なぜお釈迦様の言われたことを文字言語化したものを意味も分からず繰り返し唱えてばかりいるのだろうか。しかも、唱える内容が混同してはいけないとか意味不明なことを言っているのだろうか。」
きっとお釈迦さまもそう思われるのではないでしょうか。
お釈迦さまは現代の日本人のようにポクポクお経を意味も分からないままに読んだためしはありません。現代日本人こそ一体何をやっているのでしょうか。
そういう視点を持つことです。
誰かがみんなの苦しみを治すために素晴らしい薬を開発したとします。
ところがその薬で儲けようとした人たちは、その薬で人を助けようとかそういうことではなく、自分たちにカネが入ることを目的としました。その時点で方向が変わります。
お釈迦さまはそもそも仏法を説かれたのは何の為であったでしょうか。
本道を見失ってはいけないのではないでしょうか。
あなたも、そのように他人様から言われてグラつく、揺らぐ、迷う、その心をこそおさめることこそがお経を棒読みすることよりも、お経に説かれている内容である心を不動にする方法を学んで実践するべきでしょう。
お経というものはただ読んで終わりというものではありません。読んでその内容を学び、実践することです。妙法蓮華経にしましても題目だけでよいとするならば、なぜそれでよいのかをそのお経の中に書かれていることを良く学んで真意を会得してはじめてお経が生きてくるのではないでしょうか。
真実・真理は何を読んでもグラつかない、くらまされないものです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

『決意』とともに

ご自身でお決めになった方がよろしいかと思います。

私は、一緒に唱えてはいけないお経がある、など聞いたことがありませんし、曹洞宗に限っては特にそういう決まりはないと思います。

仏教にも様々な宗派があり、互いに考え方も異なります。また個人レベルでも批判や悪口ばかりする人もいれば、すばらしく寛容で立派な方もいらっしゃるはずです。
これはやっちゃいかん、というのはその人なりの一理由でもあるのでしょう。私にだって、こういうことはしない!と決めていることがありますし。

でもそれはあくまで信仰ですから。個人を超えてどこまでも拡大路線を張ると、お互いにややこしくなってしまいます。

あの人が言ったから。昔からそうやってきたから。お経にこう書かれているから。
ばかりではなく、自分自身の『決意』とともに教えに向き合うのが信仰ではないかと思います。

ですので
宗派やお経がどうこうより、武骨さんご自身が、どういう気持ちでお経や教えに親しんでゆかれるかの方をたいせつになさっていただきたいです。

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有り難し
おきもち

Buddhism. knowing what it actually is. ... 2020/08/22退会 2023/08/29再入会

質問者からのお礼

とてもわかりやすく、身にしみるお言葉ありがとうございます。
私もそうとは思いながらも、理屈でいろいろ言われ、その方が正しいのかも
思いご相談した限りでした。
私の信仰を、私の信念のもと、揺るぎない決意で日々信仰していきたいと思います。
ありがとうございました。

丹下覚元様
ありがとうございました。
おっしゃる通りです。

ネットとかでは意味などいいからひたすら唱えよとか
その宗教の方も題目の意味などどうでみいいから

とにかく題目の言葉自体に力があり、願い事を思いながら念じ続けろと言われました。
それには私でも違和感を覚えましたが、

お経は意味をわからず唱える方がいいとネットの誰かの意見のまま鵜呑みにて
今日に至りました。

反省しています。

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