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龍樹と唯識

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唯識にも色々な学派が有りますが、その中でも龍樹~ツォンカパ論師を系譜とした中観派と矛盾せずに
統合する事が可能な唯識の学派は何でしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大中観と転法輪における了義未了義の問題

ツォンカパ大師は、唯識派における三性説の解釈の誤りなどについても厳しく批判されておられましたことから、最終的に中観帰謬論証派の立場としては、唯識各派との統合はあり得ないと考えるのが妥当であるのではないかと存じております。

三性説の見解にしても、空における見解にしても、一切の実体・自性・自相としての成立を認めないのが、やはり中観帰謬論証派の立場となります。

もちろん、世俗のレベルでの自相を認める立場であった中観自立論証派が、唯識派と接近して、瑜伽行中観派として形成されたこともありましたが、結局は帰謬論証派による批判には耐えられないものとして、大勢を占めるまでには至りませんでした。

ただ、問題は、空に関する理解において、中観帰謬論証派の中における「自性空説」と「他空説」という二大分派があり、前者は中観の正統派の流れとして、その後も主要な立場(ゲルク派)となるのですが、後者が、唯識思想、如来蔵・仏性思想と結びついて、実は、まさに中観思想と唯識思想との統合を図っての「大中観」というものを形成させようとしていったのであります。

そこで問題となるのが、典拠とする聖典の分類(了義、未了義の分類)となります。

ここは正直に申し上げますと、更には「密教」との兼ね合いもあり、かなりややこしい問題となって参ります。

更には、「大中観」と「如来蔵・仏性思想」と「密教」において、了義に分類される教典類が、かなり唯識思想とも接近してしまっているのであります・・

釈尊の転法輪を三つに分類した際に、第二法輪を般若・中観思想として、第三法輪を唯識・如来蔵思想として、第二を未了義、第三を了義と分類するならば、明らかに唯識・如来蔵思想の方が上の教えとなり、密教も第三法輪で説かれたものとして、そこに含まれてくるのでございます。

密教・金剛乗を最上の教えであるとするならば、必然的に、中観思想よりも、唯識・如来蔵思想の方が上の教えにもなってしまうのであります・・

そのあたりは、「解深密教」や「三昧王経」、「無尽慧所説経」、「聖陀羅尼自在王所門経」など、典拠とする教典の解釈に応じても分類の違いはあるのですが、拙生的には、了義と未了義の判断については、ツォンカパ大師による態度を支持させて頂きたいと存じております…ただ、それでも実はかなり難しいところもあるにはあるのですが…

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

識される前

悟りの眼から観れば、真実の側には学派、分別、ラベルの枝分かれが不要であるということを知っておかれることをお勧めいたします。
学派に枝分かれする前の、いま、ここ、現前の真実を取り扱っているのが仏法だからです。
それを文字化、概念化、分析したものが唯識であり、仏教哲学であり、文字の法は真実ではありません。
たとえば、あなたがいる所に何らかの音が響いていますでしょう。
そこでちょっと質問なのですが、
それは中観派の耳で持って聞くのでしょうか。
ツォンカパ論師の耳で聞くのでしょうか?
唯識の耳で聞くのでしょうか?
曹洞宗の響きでしょうか?
臨済宗の響きをなすものでしょうか?
答えは、伏せておきます。
眼も耳も学派の隔てを持つものではありません。
隔ててしまうものがあるとすればそれが人間の分別、学派。
真実の側は、学派とは別にただ、それがそこに、そのようにある。
統合されるべきものは学派ではなく、その事実の側、あらゆる学派の説によって扱われている仏法そのものの方なのです。
それが釈迦の悟りの眼なのです。
「あるもの」を人間の思考・思想でもって各自が観ようとすると、そこに観る派、観る人によって表記表現が異なる。それは分析智。
真実の側は人間の隔てなんぞ相手にしていません。誰が何と名づけようが、それはそれそのものなのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

皆様有難う御座います。
一応、質問に沿った回答をして下さった川口様にお礼のコメントを書かせて頂く事になりましたが、
丹下様の回答にも深い感銘を受けました…。
お礼のコメントがお一人様にしか書く事が出来無いのは誠に残念でありますが、
皆様のご厚意が込められた回答を頂く事が出来て、感謝感激の思いであります。

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