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現実的な幸せと非現実的な幸せ

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有り難し有り難し 46

現実的な幸せと、非現実的な幸せをどちらも求めてしまい、私の欲求は両者の間をグラグラしているなぁと自分で思っています。

そして私は目的と行動は一致していなければならないと考えるのですが、どちらも求めてしまうため、どのように行動すればいいのか分からなくなってしまうときがあります。

目的に向かって行動するためには、現実的な幸せか、非現実的な幸せ、どちらかを選ばなければならないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

リアルカルビ と 美味しんぼの違い

非現実的な幸せとは画餅。絵に描いた餅。
イケメンアプリのように頭の中でメロメロになる女子と同じです。
はたから見た男性からすると(-ω-)、、、。女性を敵に回しますので何も言いません。
マンガで美味しんぼというものがあります。
料理のマンガですが、読んでいくと「へぇ」と思えることがたくさん書いてあります。そして読んでいるうちにおいしそうだなあと思えて来ます。
でもお腹は膨らみません。なぜなら、それは情報を食っているからです。
あなたの言う非現実的な幸せとは「情報を食っている」状態ではないでしょうか。
人間の8割が情報を食って生きています。
私は悟りという実物のジュージュー焼ける脂ののったカルビを食べさせるのが仕事の人間です。
ところが、多くの人は情報で満足する人間ですから、食べようと思わない。
ここで私が説いていいることは悟りへの導入部です。
メインが運ばれてくる前のサラダ、いや、フォークやナイフが置いてある下敷きのナプキンのようなものです。お腹は膨れません。涙くらいなら拭えます。
本当の現実的幸せとは、あなたが感受すべき事。感受できる頭脳になる事。だから、あなたも悟りを求めて情報で「うめー」と錯覚することのない、実物を味わいに来てください。
あなたの間違いを一つだけ指摘しておきます。
現実的な幸せと非現実的な幸せと言っているその頭んなかの世界は情報的世界です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

んなモン知るか

仏教的に言うと、望むから不満足が生まれるんです。たとえ満足できても、満足しちゃったら欲求にセルロースが増量され、増量した分だけ不満足になりやすくなります。だから満足も不満足も、幸せも不幸せも表裏一体。その表裏一体でウジャウジャやっても、犬が自分の尻尾追っかけてクルクル回るように自分の心は定まらんのです。

だからって望まなきゃ良いってもんではありません。望んでやってみて、結果に目を付けないのが賢いのです。

目的と行動は一致すべきなのに、両方望むから分からなくなると…うん、一致してませんね。目的があるなら、自分の望みなんてお呼びじゃありません。例えば目玉焼きを作るという目的があったとします。そこで、油敷いて、卵割って、水をチョット入れて、蓋して、何分待って…というのは全て目玉焼きの都合であって、私の考えなんかひとっカケラもいらんのです。むしろ邪魔。シッシッてんです。

たまには水の代わりにコーラ入れたいなぁなんて余計なお世話でしょう?自分の望みどうりに目玉焼きをアレンジするのではなく、目玉焼きの望みに自分を合わせたほうが楽しいし、美味しいんです。アレンジするにしても、目玉焼きの特性に寄り添ったアレンジが先にあって、それを私が読み解いていくんです。

自分の心ありきで考えてるうちはグラグラするだけです。その辺の電信柱と自分にヒモ結んでピンってやったらピンってなるように、自分の思いを手放すことで自分の心は定まるんです。そうしたほうが死ぬときに、あぁ、人生楽しかったって言えるんですよ。だから「んなモン知るか」。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

表現にはまってる?

こんばんは。午前4時の投稿、ご苦労様です。
何だか言葉の迷路に迷い込んでいるような印象を受けます。特に「非現実的な幸せ」とは?抽象的な幸せ、或いは壮大すぎて実現が難しそうな事なのでしょうか?
あなたが「非現実」と仮定する幸せを、何かしら別の、イメージできるような言葉で表現してみないことには、たぶん身のある返答は得られないのではないかと思います。今のままでは「言葉の上でしかない悩み」に見えますよ。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

仕事を10、20と抱えている

社会人になり交際範囲が広がるとたくさんやることが増えます。
学生さんですから、やらなければならないことも限られています。
そんな中で二つの選択を迫られて迷っているようではダメ!
両方を追い求めなさい。

若い時から逃げ腰でどうしますか。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

煩悩スッキリコラムまとめ