現実的な幸せと非現実的な幸せ
現実的な幸せと、非現実的な幸せをどちらも求めてしまい、私の欲求は両者の間をグラグラしているなぁと自分で思っています。
そして私は目的と行動は一致していなければならないと考えるのですが、どちらも求めてしまうため、どのように行動すればいいのか分からなくなってしまうときがあります。
目的に向かって行動するためには、現実的な幸せか、非現実的な幸せ、どちらかを選ばなければならないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
リアルカルビ と 美味しんぼの違い
非現実的な幸せとは画餅。絵に描いた餅。
イケメンアプリのように頭の中でメロメロになる女子と同じです。
はたから見た男性からすると(-ω-)、、、。女性を敵に回しますので何も言いません。
マンガで美味しんぼというものがあります。
料理のマンガですが、読んでいくと「へぇ」と思えることがたくさん書いてあります。そして読んでいるうちにおいしそうだなあと思えて来ます。
でもお腹は膨らみません。なぜなら、それは情報を食っているからです。
あなたの言う非現実的な幸せとは「情報を食っている」状態ではないでしょうか。
人間の8割が情報を食って生きています。
私は悟りという実物のジュージュー焼ける脂ののったカルビを食べさせるのが仕事の人間です。
ところが、多くの人は情報で満足する人間ですから、食べようと思わない。
ここで私が説いていいることは悟りへの導入部です。
メインが運ばれてくる前のサラダ、いや、フォークやナイフが置いてある下敷きのナプキンのようなものです。お腹は膨れません。涙くらいなら拭えます。
本当の現実的幸せとは、あなたが感受すべき事。感受できる頭脳になる事。だから、あなたも悟りを求めて情報で「うめー」と錯覚することのない、実物を味わいに来てください。
あなたの間違いを一つだけ指摘しておきます。
現実的な幸せと非現実的な幸せと言っているその頭んなかの世界は情報的世界です。
んなモン知るか
仏教的に言うと、望むから不満足が生まれるんです。たとえ満足できても、満足しちゃったら欲求にセルロースが増量され、増量した分だけ不満足になりやすくなります。だから満足も不満足も、幸せも不幸せも表裏一体。その表裏一体でウジャウジャやっても、犬が自分の尻尾追っかけてクルクル回るように自分の心は定まらんのです。
だからって望まなきゃ良いってもんではありません。望んでやってみて、結果に目を付けないのが賢いのです。
目的と行動は一致すべきなのに、両方望むから分からなくなると…うん、一致してませんね。目的があるなら、自分の望みなんてお呼びじゃありません。例えば目玉焼きを作るという目的があったとします。そこで、油敷いて、卵割って、水をチョット入れて、蓋して、何分待って…というのは全て目玉焼きの都合であって、私の考えなんかひとっカケラもいらんのです。むしろ邪魔。シッシッてんです。
たまには水の代わりにコーラ入れたいなぁなんて余計なお世話でしょう?自分の望みどうりに目玉焼きをアレンジするのではなく、目玉焼きの望みに自分を合わせたほうが楽しいし、美味しいんです。アレンジするにしても、目玉焼きの特性に寄り添ったアレンジが先にあって、それを私が読み解いていくんです。
自分の心ありきで考えてるうちはグラグラするだけです。その辺の電信柱と自分にヒモ結んでピンってやったらピンってなるように、自分の思いを手放すことで自分の心は定まるんです。そうしたほうが死ぬときに、あぁ、人生楽しかったって言えるんですよ。だから「んなモン知るか」。
表現にはまってる?
こんばんは。午前4時の投稿、ご苦労様です。
何だか言葉の迷路に迷い込んでいるような印象を受けます。特に「非現実的な幸せ」とは?抽象的な幸せ、或いは壮大すぎて実現が難しそうな事なのでしょうか?
あなたが「非現実」と仮定する幸せを、何かしら別の、イメージできるような言葉で表現してみないことには、たぶん身のある返答は得られないのではないかと思います。今のままでは「言葉の上でしかない悩み」に見えますよ。
仕事を10、20と抱えている
社会人になり交際範囲が広がるとたくさんやることが増えます。
学生さんですから、やらなければならないことも限られています。
そんな中で二つの選択を迫られて迷っているようではダメ!
両方を追い求めなさい。
若い時から逃げ腰でどうしますか。