回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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道元禅師が「やれ」っておっしゃっているから
『正法眼蔵』「看経巻」には逆に「読め・やれ」と書かれていますよ。禅宗は不立文字・教外別伝だから曹洞宗も不立文字・教外別伝で文字を否定とか言っている人たちはド三流です。そんな人たちの言葉を信じてはいけません。典座教訓でも不立文字・教外別伝は否定されていますし、宝慶記に至っては「不立文字・教外別伝なんて言ってる連中は恥ずかしい奴らだぞ」扱いです。
禅学の教授の論文では「不立文字・教外別伝は宋代の僧侶がサボるための口実にしていたもの」と書かれているのに、パーリ仏典あたりが専門の教授が教科書を出版すると「禅宗は不立文字・教外別伝だから曹洞宗も不立文字・教外別伝」と書かれてしまっているのが実情です。
そして何を隠そう、禅は不立文字・教外別伝という先入観を一般の方々に最も広めたのは、「四箇格言」です。現代では正統派の日蓮宗は四箇格言と訣別しています。つまり…あとは分かりますね?
さて、じゃあなぜ学道用心集と眼蔵で逆のことが書かれているか?
答えは簡単です。道元禅師は『中道』であり、『対機説法』だからです。そりゃそうですね、仏教ですから。当たり前です。
学道用心集はいわゆる『本の虫』、知識だけ求めて自分じゃ全く修行しない人への警句。眼蔵は仏道を深く志す人に対して道元禅師の全てをぶつけた提唱です。
同じ食事でも修行になっていない食事と修行としての食事がある。坐禅になっていない坐禅もあれば脚を組まなくても坐禅になっている坐禅もある。では、修行とは何なのか?大切なのはそういうトコですよ。
そしてそれについては我々曹洞宗の回答僧が散々回答してきています。
逆に「坐禅しろって書いてある。とりあえず坐ってればオールオッケーなんだ!」とか「書籍の文籍ばかり~や歴代仏祖の名前を唱えるばかり~って書いてあるからとりあえず禁止すればイイんだ!」と頭の中のルール(思慮分別)を箇条書きに築き上げていく…そういうのが一番、道元禅や仏道から離れる心のあり方です。
『正師の下で』典座教訓を読んでみなさい。「文字を否定をするのが仏道ではない。文字を用いても十方に通会しているのが仏道だ」と書かれていますから。
追放されたけれども、本当にもう一度得度してやり直したいという思いがあるのなら、本当に自分をリセットして0からやり直しましょう。
追記
すみません、日頃書きたかった事を書くチャンスだったもので
質問者からのお礼
いえ否定するつもりはありません