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自分を失敗作だと思ってしまいます

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こんにちは。
タイトルの通り、私は自分で自分を失敗作だと思ってしまいます。

私には妹がいるんですが、妹は成績優秀でスポーツも万能、おまけに絵も字も上手いです。高校生なのですが進学校に通っていて、将来は教師になるそうです。

逆に私は高校は底辺校卒、卒業後は音楽の専門学校に入り歌を学び、今はラジオ関係の職についています。
この仕事に不満もないですが、妹の出来の良さに自分が惨めになることが多いです。

同じ親から生まれたのに、ここまで違うものかと毎日毎日苦しいです。
こんな気持ちを妹に持つこと自体も辛いです。

今日、親に私は失敗作だと嘆いてしまいました。

どうすればいいでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

七味唐辛子はどれが欠けてもいけない

兄弟姉妹はそれぞれ得意分野があってそれぞれ性格も感性も違います。比較するものを間違えてはいけません。
人間はそれぞれAKBでいうと神7のような存在です。
誰かが一番人気のあるとしても、人気がない人でも、あってもそれぞれ比較はできません。
七味唐辛子には7つの素材が入っています。
1ごま
2唐辛子
3けし
4麻の実
5山椒
6陳皮
7青のり
8シソ
9ショウガ
アレ…?
7つじゃないっ。
そうです。
七味唐辛子といっても色々あるのです。
あなたがゴマであって妹さんが唐辛子だとしてもそれぞれの個性というもの。
比較する必要がないのです。
このhasunohaでもそれぞれ個性が違います。
別に僧侶の世界と言ってもhasunohaばかりじゃありませんから、誰がどこの「七味唐辛子」の組織に所属しているか知りませんし七味唐辛子グループではなく「カレー」の組織の一因かもしれません。ひょっとしたらアンパンの上にちょっとまぶされているかもしれませんし、マーボー豆腐の中に入っているかもしれません。
大切なのは、あなたがあなたとしてスパイスの香りを引き出せる場を見出すことです。
カレーにゴマを入れてもあまりあいません。
妹さんが唐辛子であったらスイーツには向きません。
セサミはセサミでスイーツとも相性が良いです。
この世に存在するスパイスの何が一体失敗作だというのでしょうか。
自分がどこでどう活用されるか。
そこをよく考えながらゴマせんべいや担々麺やハーベストでもお召し上がりください。
担々麺にはゴマと唐辛子が欠かせません。
あなたたちは担々麺なのです。
それぞれ個性は違いますが、お互いに欠かせない存在です。
アナとエルサも個性が違います。
それぞれの持ち味を生かして助け合ってください。担々麺大好きたんたん丹下より。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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