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自分で決めることが出来ません

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有り難し有り難し 59

昔から自分で決めることがとても苦手です。

いつも誰かの決定に従って生きていきたい、と思うほど自分で決めることが出来ません。誰かに決められないと、何をすればいいのか分からず非常に不安になります。

高校のころまでは自分で決めなければならない場面が少なかったため、こんな性格でもなんとか過ごせてこれました。けれども最近は自分で決めなければならない場面に多く直面しています。そして周りの子が当たり前に自分で決めているのを見るたびに、自分もああならなくては、と焦っています。そんな風に焦ってはいるものの、結局自分で決めることが出来ず、友人にどうすればいいのだろうと決定を求めてしまっているのですが…。

自分で決められないのは、自分の決定に責任が伴うのを恐れているせいだろうと思います。また、何に対しても「そういう考え方もあるんだなあ」と疑問を持たずに受け止めてしまい、結局何が正しいのだろうかと悩んでしまう性格のせいだろうと思います。

責任を持てないふわふわとした自分に嫌悪感があふれ、このような性格のまま生きていけるのだろうか、と不安を抱える毎日です。どうすれば自分で決めることができる人間になれるのでしょうか。(こうして聞いている時点で人に決定をもとめていますね…笑)
長々と申し訳ありません。つまらない悩みかもしれませんが、何かお言葉を頂ければ嬉しいです。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

決断力のある人ほど自分で決めない

今川義元の軍が攻めてきました。さて、どうしましょう?答えは「知るかボケ!」です。理由は『判断材料が何もないから』。

こんな情報が入ってきました。「敵の兵力はこちらの5倍〜10倍」。するとこうなります。「こりゃあ正面から正攻法で戦っても無駄やね。降伏するか、戦うなら籠城して援軍を待つか、一か八かで奇襲するかしかないね。」ハイ、判断材料がたった1つ出てきただけで「知るかボケ!」状態からプランが3つに絞れました。スンバラシイ!

さらに考えてみると…「援軍ってどっから呼ぶねん…反対側の斎藤家も北畠家もウチと紛争中やないですか!」ハイ、判断材料が1つ増えて2択に絞れました。さぁ、降伏か?奇策か?どうするどうする???

するとこんな情報が!「今川の大将が場所バレしました。しかも敵はV字型に展開してるから、真ん中突っ切れば他の敵を無視して敵の大将をピンポイントで狙えそうな感じ!」奇襲でなんとかなりそうなら、降伏する必要ありませんよね!かくして織田信長は騎馬隊でスピード勝負に出まして、あとは皆さまご存知、真ん中ぶっちぎりの桶狭間。

自分で決めるというのは、実は自分の意思を持つということではなくて、判断材料を探すことの積み重ねです。
判断材料を探す癖がないから何をしていいか分からない。判断材料を探す癖がないから他人の決定に従いたい。判断材料を探す癖がないから自分の決定という言葉に踊らされる。全部そういう所です。

なぜhasunohaのお坊さんたちはこんなに回答できるのか?自分で考えていないからです。仏さまの教えの仲介をしてるだけなのですよ。ご質問文(判断材料)を何度も読んで、仏教(判断基準)と照らし合わせれば自然と回答の方向性が決まってきます。
お坊さんにはそれぞれ宗派ごとに学んだ教えのタイプが違いますし、その教えの解釈も1人1人違います。この判断基準の違いが個性になります。で、それが自分の経験と混ぜっこしてこなれてくると、頭で考える判断基準から身体で覚えた判断基準になってきて、人柄であるとかその人なりの決断っぽくなるわけです。

だから自分で決めたいなら自分の性格と向き合ってはダメです。問題のまわりの判断材料を漁ること、先賢の教訓をよく聴いて心の片隅に留めておくこと、自分の専門分野を作ってよく学習すること、この3点が大切です。性格なんてのはその後から付いてくるモノです。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

決断しないという事を選択してるじゃないですか。

人間、最終的には二者択一です。
私は、ここでの回答をするかしないかも、選択してるのです。
ああ、忙しい、難しい質問が飛び込んで来たなぁ、回答できなさそうだなぁ…。
→回答しなかった … これは、回答しないことを選択した姿でもあります。
回答しなかったにせよ、それも選択しているのです。
回答しないという事を選択した姿なのだということなのです。
あなたの場合も同じです。
・ためらっていることを選択している。
・安全地帯にとどまることを選択してる。
・そっちを選ばない方がラクそうだ、傷つかなくて済みそうだということを選択しているから、それをしない。
という、だけなのです。いや、ホントよ?
だから、このカラクリを利用するのです。
このまま腐っていっていいだろうか?イヤ!
だったら、決断する!
という図式を設けてみてください。
行動せざるを得ません。
一番サイテーな選択は、
「やろうとはおもっているのだけれど」という言い訳です。
これも「やろうとはおもっているのだけれど」という事をいいながら、逃げている、やらないということを選択しているからなのです。今日から使ってはいけません。
大事な時に動かなかったならば、意味がないからです。
大事な時に「行こうとは思っているのだけど」では、あなたを幸せにしてくれる白馬の王子サマも、声をかけてもらえないから言ってしまいます。思っているだけでは、馬の耳に念仏以下。馬にすらその声は聞こえません。ヒヒーン(泣)。
今日は雨です。さて、どうしますか?お洗濯。
「雨だからどうせ乾かないしー」という選択と、
「室内干しで干せばいいや」という行動する選択肢。選ぶのはあなた。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あなたの好きなように選択してください^_^

人と比べようのないことではないでしょうか。
その人なりに考えで、みんな決断しています。ただ時間のかけ方が違うだけではないでしょうか。その人なりに考えがあって決めているのです。人からは悩んでないように見えるのかもしれない。しかし悩んでいたりするものです。

レストランで何を食べようか。
正しい選択はどれか。

一番食べたいものを自分のお腹と相談し、メニューにある写真を見ながら、刺激されたものを選ぶ人。
量を大切にする人は、一番お腹にたまりそうなガッツリ系。
お金にゆとりがないからと、自分の懐を見ながら決める人。
ダイエット中でカロリー表示を気にしながら決める人。
等など・・・

人によって決め方もそれにかかる時間もちがいます。
どの選択が正しいということもないでしょう。
もともと、正しい、正しくないがないものに、
そういう判断で考えようとするから決められないのです。
友達はパスタを頼んだから、私はカツ丼をたのめないなんてことないでしょう。何でもいいのです。
なんだかんだあなたも決断しながら生きているでしょう。どうでしょうか。
大丈夫です。まずは人と比較することをやめましょう。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

失敗は宝

結果はいつも大したことはない。
出た結果が悪ければ、そからまたやり直すだけです。失敗をしない人は成長できないもの。失敗は人生で拾う宝なのです。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

回答ではありませんが

大慈さんのおっしゃるとおりです。パーフェクト!(というのもおこがましいのですが)。数学の定理は勉強して、実際の試験ではそれを使って回答する。最初からオリジナルで考えなくていいのです。実は数学とは、その事自体を学ぶ学問だと思っている程ですよ。
私から付け加えさせて頂くなら。
子どもたちは、基本的に試行錯誤で行動パターンを身につけます。自分で何かアクションをおこして、その結果を見て、良いと思ったものは取り入れ、ダメだと思ったら止める。その膨大な繰り返しから、人間は行動パターンとか性格ができていくのです。
「自分で決めない」メリットは、「責任を取りたくないから」と推論されていますが、厳密に言えば「失敗したくない」からでしょう?それは、なんでも体当たりの試行錯誤の次の段階です。そりゃ失敗したくはありませんが、誰にとっても未来は不確かなもの。生きていく上で、失敗はつきものです。だから、「いかに失敗しないか」を追求するなとは言いませんが、より大切なのは「失敗を感知した時にどう対応するか」なのです。取り敢えずで始め、修正しながら進める。その身のこなしの軽さが、大切なのだと思いますよ。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

質問者からのお礼

お答えくださってありがとうございました。

頂いた回答を一つ一つ読みながら、自分は失敗を恐れるあまり最初から行動しないという悪い癖があることに気づきました。
「失敗したくない」という文字を見たとき、心にぐさっときて、これが図星というやつかあとなんだかおかしくなって笑ってしまいました。まさにその通りだなと。
失敗したときに笑われるのが恥ずかしい、なんて気持ちが後ろに隠れていたのです。けれどもいざ失敗したときにどう対応するかは、今までの積み重ねがなければできませんね。お恥ずかしいことに、失敗することを恐れるあまり全く気づいていませんでした。

また、判断材料を探す癖がないから何をしていいか分からない、のお言葉には前が開けたような思いがしました。確かに、いつもそれがあって悩むはめになっています。
決定しようにも材料がなければ判断なんてできませんね…。まずは判断材料を探す癖をつけてみようと思います。
経験と勉強を積み重ねてみてから、これだ!と判断することができたら、そのときは自分を褒めてあげたいです。

自分では見たくなくて隠していた悪いところに向き合う良い機会となりました。少し心が軽くなったように思います。ご丁寧にお答えくださって本当にありがとうございました。

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