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死に対してどう向き合えればゴールですか

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小さい頃から、命が有限であることをネガティブにとらえ、生きることに執着してしまいます。

仏教の教えに従うことで、こうした心が安定するのを感じます。
しかし、一方で、「死を受け入れるしかないなんて虚しい」とも思ってしまいます。

心が安定する→虚しくなる→心が安定する→虚しくなる、この繰り返しです。

このまま死ぬまでこのループから抜け出せないのではないかと不安な気持ちでいっぱいです。

最終的に、死に対してどのように向き合えるようになれればゴールなのか教えていただきです。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無限のいのち

るなさん、こんにちは。

阿弥陀如来という仏様をご存知でしょうか?

南無阿弥陀仏。で有名な仏様です。
南無はおまかせします。
だから南無阿弥陀仏は
阿弥陀様におまかせします。という意味になります。

なぜ阿弥陀様におまかせするのかというと
それは阿弥陀仏という仏様の名前の由来を知ればわかります。

阿弥陀ということばはインドの古い言葉で
アミターユス
アミターバ
を漢字に当てはめたものです。ですから阿弥陀という漢字そのものに意味はございません。

アミターユスを音でなく意味で漢字に直すと
無量寿となり
アミターバは無量光となります。

無量。とは有限の反対。計り知れない無限の意味です。
無限の命(寿)と無限の光の仏である。
という意味です。

るなさんだけでなく、私も、私の家族も、70億ほどの世界人口全員も、漏れなく死にます。
人それぞれ有限の命を頂戴し、生きて死にます。この事実の前では貧富や善悪一切の分別なく平等です。
私たちの母体の地球でさえと有限のいのちと言えるでしょう。

ではこの、人それぞれ、生き物それぞれ長短はあれど有限の命はどこから来たのでしょうか?

無限の命から来たのです。
無量の寿から頂いたのです。
無限の命の分け命なのです。

小さな人間目線で見れば有限に見えますが、
無限から来て無限に帰るのです。
阿弥陀仏という無限の命と光の元へと帰っていくのです。
実は私たちの命は無限のいのちなんです。

いつ死ぬかはわかりませんが、何も心配せんでいいんです。いのちの根源、いのちの親である阿弥陀仏にお任せしていればいいのです。

不安なら不安なまま、むなしいならむなしさのまま南無阿弥陀仏と名をよんでお任せしていればいいんです。

その声を必ず聴いておられます。

そのうえで
「大丈夫、だいじょうぶ。そんなに心配せんでも私に任せといたらええのんや。ゆったりいけよ~ぼちぼちいけよ~。」

とほほ笑む無量寿、無量光の阿弥陀様です。

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ゴールはなくともゴールしたいという願いがある

死との向き合い方にゴールというものがあるのかどうかは私には分かりません。やはり私たちは生きている限りは「生きることに執着」する存在だからです。

その私たちにゴールというものがあると言えるとするならば「『ゴールしたい』という願いを持って生きる事」でしょうか…。

仏教では「生死(しょうじ)」を迷いと説きます。生と死を別物にとらえるのは「私」というものの中に「常一主宰(じょういつしゅさい)」の我を見出す邪見があるからです。
つまり「常に、一定(単一)で、主として、宰(つかさ)どる」我を見出すから「私の生」を「私の死」を実体視してしまうのでしょう。

その「生死」の迷いを超えるという境地は様々な味わいがあることですが、ある本(※)では「死では終わらない物語を生きること」と釈徹宗さん(浄土真宗)は表現していますし、「つながりをたのしんで生きること」と藤田一照さん(曹洞宗)は表現しています。
(※『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』小出遥子・角川書店 あなたにオススメです。)

その境地には「死ぬのが嫌だ」と「死んでいける」の両立があると私は感じています。煩悩の身を生きる人間としての執着にまみれながらも、その私をして仏の智慧により照らされた世界を生きたいと願わせるはたらきが仏法にはあるのです。

死んだら終わりだと死を恐怖するのは先人や周りのご縁からいただいたつながりの種を感得できていない人です。種を受け取った自覚があるのなら、自分もまた種を蒔く人であったと気づきます。自分が蒔く種をまた受け取る人がいる、そこに「死では終わらない物語」も「つながりを楽しんで生きる」今もあるのではないでしょうか。

ただ生まれてたから生きるのではなく、ご縁というつながりをいただいたからこそ今この私が生かされているという事実は常に、私のものとしてわが命に執着する私の在り方に「それでいいのか?」とはたらきかけます。
それでもなお執着する私に「それでよい」「そのままおいで」との呼びかけが、この私に「生死を超えたい」という願いの歩みをもたらすのです。

その呼びかけを浄土真宗では「南無阿弥陀仏」といただきます。

るなさんが救われる教えが仏法にはあるはずです。これからも是非仏法に尋ねてください。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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死は「卒業」だから、おめでたい。

人生の節目節目は、すべて「おめでとう」と祝います。
出産、入学、成人式、結婚、就職、退職など。
誕生日や成人式なんか、努力しなくても必ず来るものですが、それも「おめでとう」です。
死も「おめでとう」でよいのです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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るなさま

「死を受け入れるしかないなんて虚しい」

と言ったときの「死」には、るなさんの解釈が
込められていると思うのですが、それがどうゆうものか
具体的に丁寧にご覧になったことありますか?
「死」とはこうゆうものという定義のようなものは
実際ないというか、私たち人の立場ではこうですと
はっきり言えないものだと思います。
ですから今、るなさんがお持ちの「死」に対する
考え、イメージ、命は有限というようなものも
決して確定したもの、確実なものではないと
思うんです。
そこをもう一度丁寧に見直していく、問い直していく
ことも、ループから抜け出す一つの方法ではないかと
思います。
風は目に見えませんが、洗濯物の動きでそれがそうと
わかるように、直接ではなくても間接的にわかるという
方法もあると思います。
同様に死についても、色々な見方、感じ方、イメージがあると
思います。様々なそうした見方、イメージに触れてみるのも
良いのではないかと思います。

有限とか無限とか、生まれるとか死とか、有る・無い・・・
それはみんな考え、観念です。
この世界のことに名前や意味を貼り付けながら日々生活をし、
考えの世界にどっぷり浸かって生きていますが、
私達の命そのものは、考えの中で扱うものではないと思うんです。
命という働きがあって、見たり、聞いたり感じたりという働きの
中の一つの「認識」という働きが、有る無い、生死という概念を
創っているわけですから、命は概念の中に組み込まれるものでは
無いと思います。
命は有るとか無いとか、生とか死とか以前のもの、
生滅にかかわらないもの、すべてに先立って「在る」もの、
そう理解するのではなく、気付く、感じとっていくことが、
一つのゴールではないかと私は思います。

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おきもち

地方の小さい町の小さいお寺の住職をしていました。
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質問者からのお礼

願誉浄史 様
ご回答ありがとうございます。
死も「おめでとう」なのですね。
確かに、努力しなくても必ず来るものには、何か大きな力の働きを感じます。
死に対する見方が、またひとつ自由になりました。
貴重なお言葉、ありがとうございました。

大乗 様
ご回答ありがとうございます。
阿弥陀様のお名前に「無限の命」という意味があったとは知りませんでした。
無限の命から生まれたはずなのに、なかなかそのことに気づけないものですね。
生きることは気づくことそのもののような気がいたしました。
貴重なお言葉、ありがとうございました。

吉武文法 様
ご回答ありがとうございます。
「死ぬのが嫌だ」と「死んでいける」の両立、とても希望が持てる言葉です。
そもそも「死んだら終わり」という考えは間違いであり、ご先祖様たちに対して大変失礼なことだと痛感いたしました。
おすすめしてくださった本も、必ず拝読させていただきます。
貴重なお言葉、ありがとうございました。

法演 様
ご回答ありがとうございます。
私が思う死とは、「私」の死であり、「私」と「命」は区別されているようです。
これはまさに、私の中の「認識」の部分が暴走している表れなのでしょう。
風のお話、大変参考になりました。
「私が私として在る」とはどういうことか、この人生を通して感じ取っていきたいと思います。
貴重なお言葉、ありがとうございました。

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