死が怖いと感じてしまいます
長文で失礼いたします。はじめまして。
去年の8月頃から、死ぬということに対して過敏に恐怖を感じるようになりました。
ふと、母親がいなくなったら恐ろしいと感じ、そこから、いつか誰もが死を迎えるということに気がつき、自分もいつかそうなるのだと強く感じて、「死んだら自分はどうなってしまうの?」といった恐怖で常にいっぱいになるような状態になっていました。
怖がるだけではどうしようもないと感じ、友人や母に打ち明けて相談に乗ってもらい、一時的に恐怖から離れられることもありましたが、安心できる状態がしばらく続いた後、ふっと思い出し、どうにもならないという思考になってまた怖くなるような状態の繰り返しになってしまいました。
忙しくすれば忘れられるという親の意見を元にアルバイトを始めてみたりもしましたが、バイト中に恐怖心が押し寄せてくることもあります。
不安のあまり、SNSで同じような悩みを持つ人たちの投稿を見た時に、そこで「産まれなければよかった」など不安を掻き立てるような言葉ばかりの人を見てしまい、恐怖が押し寄せてくるような事もありました。
産まれることは自分の意思で選べないことであり、この世へ産まれた以上は死を迎えるまでは懸命に、楽しく生きたいと思っています。就職も迫っているので尚更この考え方が大事だと思います。それなのに、まだ死が恐ろしいと感じてしまう自分がいることが不甲斐ないです。
こんな状態が続いて苦しいです。私はどうすればいいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死の恐怖は超えられる
死は死が怖いのではなくて、死に対してあなたが思ったこと、関連して思い起こされたゾブゾブした💀負の思いが恐ろしいだけです。
アナタは自分自身の思いに恐れおののいていたと知るべきでしょう。
人はこの自己というスクリーンに映し出されたものにテロップを添え、特殊加工、CGを駆使するように体感・体験したこと・思ったことを脚色します。
脚本家はあなたです。
CG加工するのもアナタ。
主演女優もあなた。
今のあなたは主人公で「死」という忍び寄る死神に対してホラーホラーしたイメージを思い起こしてスクリーミングな状態です。
( ゚Д゚)AH===!!!!!
その思いというものは、あなたが増幅させたものです。
人間は物事に対して二次的な想念で苦しむものです。
アナタが恐れているのは死ではありません。
死に対する自身の負の思い方なのです。
愛知でしたら足助の香積寺を下調べをして行ってみると良いでしょう。
昔、奕堂禅師という立派な禅僧が修行していました。
風外禅師という方に就いて仏法を明らめんと修行されておられました。
お若い頃禅師さんは「誓って二念を生ぜず」と誓願を立てられました。
死ということも、死に限らずとも、何ごともモノをみるにただそのものを見てそこに余分な見解を添えずに居てみてください。
死によって食品業界では生活が成り立っています。
スタバは豆の死によって商売が繁盛しています。
大工さんは木を活かして家を作ります。
そこに死というマイナスやネガティブな意味は添えられていません。
死の本質には、死ということすらなく、負の意味も、悪い意味さえもないというところがあります。坐禅修行、禅修行してここで申し上げております道理を明らかにしてみてください。
死に対する恐れが無くなれば、失うということがなくなり、人生はとても軽やかで快適で涼やかであたたかなものになりましょう。
立派な人はみな死を恐れました。
賢い人ほど、そこに気づくのが早いのです。
生死を明らかにする、生死を超えるということがあるのです。
いまこうしてここにいるとき、生もなく死もない、一切の人間の見解を飛び越えたバッチコイな真実不虚の今があることが明らかになるまで、ここはテーマとなさってください。
人間は人間界の想念に動ぜざれば、ただ実相を生きるのみです。
思考以前の確実なる今がいつでもそこにある。
怖くて当たり前。
初めまして。
私も、よーく分かります。でも、一人の時は気付きませんでした。因幡さんはすごいなと思います。
私は、子供が生まれて「この子が死んだら…」と思ったら怖くて仕方なかった。
家から出なければ安全か?etc色々な事を考えましたが、ここはシャバ。どこにも100%安全な場所はありません。
「生かされている」という言葉に出逢って数年、それが身に染みて恐怖が薄れました。
子供に「僕が死んでもずーっとは泣かないで。ママが泣いてたら、いけんことしたなって僕も悲しくなる。ママが死んでも、今よりずーっと一緒にいられるから、僕頑張る」と言われて「この言葉を聴けたらもう何もいらない」と思いました。「この命」が死んだらおしまいと思うから怖い。浄土真宗は「この命」が死んでも仏様となって、ずーっと一緒にいてくださると聴かせて頂きます。
私は自分が家族に会えなくなることを怖がっていたけれど、息子は悲しむ私を心配してくれた。
因幡さんも、家族や友人に願われている命。
因幡さんが、願っている命。
「この命」終わるときは、意味があります。
きっと阿弥陀様が「よく頑張ったね。あとはあなたが仏様になって、周りの人を包んでいく番だね」と抱き抱えて下さる瞬間。
怖くていいんだよ、怖かった分、あなたが怖くない、無意味じゃないと伝えるんだよよ教えて下さっている気がするんです。
明日の命の保障は誰にも出来ません。
因幡さんの恐怖をなくすことは私には出来ませんが、「また会える世界があるよ。今のあなたのまま仏になれる世界があるよ。」と約束して下さった阿弥陀如来のことをお伝えすることは出来ます。
大丈夫。生かされている間は人としてやるべき事がある、死んでも仏としてやるべき事があるのではないでしょうか(^^)
仏教の世界へ、ようこそ!
因幡さま、はじめまして。
すごく共感しますよ。世の中。たとえば安定した生活を得るためにいい会社に就職を、そのためにいい大学へ入学を、そのために塾に通って勉強を…等々、この現世の生活を安寧に送るための努力ばかりが注目されますが、しかし、どれだけたくさんのお金や地位や名誉を得ても、たとえオリンピックで金メダルをとっても、死の際には、必ず手放さなければならないのです。
そして、因幡さんのおっしゃるように、
死んだあとは、私たちはいったい、どこに投げ出されてしまうのだろう?
いつか死んでしまうのに、私たちはなぜ、今を一生懸命生きるのか?
このような根本的な問題と、正面から向き合っている人は、世の中、ほとんど、いない!のです。
しかし、ほんとうに!後先のことを考えるのであれば、たとえば、これから山登りをしようとする人が、山をよく知る人にアドバイスを受け、身体を鍛え、道に迷わず山を登るための道具を用意するように、必ず「死」を迎えると知った人にとって、死んだあとのことも考えて生活するのは、とても有意義なことであるとわかるでしょう。ただただ、幸せな家庭をもってそれなりの生活を送ることが出来れば万事OK、というわけではないと知るでしょう。
そうであるから、因幡さん、あなたが今、死に対する恐れを抱き始めたというのは、とても善いこと!なのだと思います。
これら、生きることと死ぬことについて、知り尽くした人(なのかどうかは、因幡さまが確認することになるのですが)、といわれるのが、仏さま、お釈迦さま…なのでしょう。
ですから、因幡さま、ぜひ、様々なお経に触れて、仏教について学んでみるといいと思います。仏道修行者たちは、まさに、因幡さんのおっしゃる生死の問題と、正面から向き合ってきた人たちです。
あと、1点だけ…
「産まれることは自分の意思で選べないことであり…」
仏教では、無明(因果に暗いこと)によって生まれてきた、ということになるので、意志でコントロールできる、と見ます。以下、文字数制限により割愛します…
死の問題は、世間ではネガティブなことと、あるいはタブーであると捉えられてるかもしれませんが、私としては、真のポジティブ!(笑)を得るためには、こういうことを考えることは、欠かせないと思いますね。死を知って、死を乗り越える…それが、ほんとうの「安心」だと思います。
質問者からのお礼
丹下覚元さま
回答していただき、ありがとうございます。一つ一つの言葉がスッと腑に落ちていくのを感じました。紹介していただいたお寺さまの方も近いうちに行ってみようと思いました。
緇川杏美さま
回答していただきありがとうございます。
死の後も、仏としてやるべき事がある…怖くてもいい、読んでいて安心する気持ちになりました。「生かされている」ということを念頭に、生きているうちにやるべきことを見つけて実践していきたいです。
Shunkaiさま
回答していただきありがとうございます。
無明…初めて聞きました!私もまだまだ仏教について知らないことばかりなので、さまざまな書物や情報に触れてみたいと思います。その上で、死について考えさせていただきます。