死期が近くなったのでどう構えれば良いですか
初めまして。同じ宮城県に住む者です。旦那は39歳、息子18歳、娘15歳。まだまだ手をかけてあげたい特に娘が甘えん坊で置いて行くのが辛いです。今月の8日に極めて深刻な場所に癌が出来てますと言われ、やんわり余命宣告とも取れる話をされました。手術が大変困難で完治ではなく延命治療だと。家族に向けて毎日、自分の思いを日記にのこしています。家族がこれを読んで私がどれだけ家族を愛していたかということを忘れて欲しくないカラです。
それは私が勝手に押し付けた感情ではないかと悩んでいます。逆の私の物や気持ちを置いて行かないほうが良いのでしょうか。仏壇に手を合わせ、お墓まいりに来てもらうだけで有難いと思い満足した方がいいのでしょうか?
やり残してる事なんて沢山あるけど時間がありません。家族…旦那さん、息子、娘の為に何が出来るか また、私が死んだあと遺品をのこさず逝った方が家族は遺品をみて悲しまないのか悩んでます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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姿形を超えて
ご相談拝読しました。お気持ち察するに余りあります…。
宮沢りえさん主演の映画『湯を沸かすほどの熱い愛』はご覧になりましたか?まだでしたらよろしければご覧になってみてください。余命二か月の母が「絶対にやっておくべきこと」を実行していくストーリーです。
さて、死を前にどう構えるか、何を残すかについてこれが正解、これは間違いという事もないでしょう。また、他人がとやかく言える問題でもないでしょう。
りおこさんが生きたいように生きていただきたいと感じます。その生き方こそが残されるご家族の生きる力になるのではないでしょうか。何を残すか、どんな形に残すかというよりも、りおこさんがどのように死に向かい合い、どのように生きたか、その歩みこそがご家族それぞれが本当に満足して生きぬいていけるための教えになるのでしょう。
もちろんそのりおこさんの生の歩みを何か形に残すことに問題はありません。形があってこそ、形を超えたものに人間は出会えるのかもしれません。
日記という形あるものから、その形をこえたりおこさんの気持ち・願いにご家族は出会えるのではないでしょうか。
最後に、ご家族を一番にお考えの事と思いますが、りおこさんご自身の事はいかがでしょうか。本当に満足して死んでいけるものに出会うことができたでしょうか。
今回ここhasunohaをご利用いただいたのは大きなご縁だと思います。残り少ない期間かもしれませんが仏教に触れていただけると生死を超える教えに出会えることと思います。
死では終わらない「いのち」があるのです。
どんな人も生き様・死に様に関係なく、全ての川の水が海に入りて一味になるように、死では終わらずみな等しく帰っていける世界があるのです。
それは「さようなら」ではなく「またね」の世界。それを「浄土」と私は呼びます。
もちろん肉体的に今の姿をもって再開できるという意味ではないでしょう。
ただ、私もあなたも同じ一つの処に帰し、再び出会えるのだというおおきな「いのち」の物語が、物語という形をこえて私の身とこころに、安心や満足という「はたらき」をもたらします。
そのはたらきによって死の不安・恐怖と満足・安心の生が両立し、生死を超えていけると私は感じます。
南無阿弥陀仏
このたった6字の中に姿形を超えた大きないのちとして宿り、ご家族とりおこさんは出会い続けていけるのです。
質問者からのお礼
早速のお返事ありがとうございます(*^^*)
今、娘の卒業式を終えたところです。
お式の間は「このような式に出るのも最後なんだな」と湿っぽく思っていましたが回答を頂けたこと、その内容のおかけで自分らしく「いつまでも私を忘れないで。私を傍においてずーっと愛して」と素直に自分自身の気持ちを受け止めることが出来る1歩となりました。
その映画はまだ見たことがなかったのですが映画やDVDを一緒にみたり、した事のない旅行などをしようと旦那さんと話してたので是非鑑賞したいと思います。またねと笑顔で言える日が来るように懸命に生きようと思います!
またお世話になるかもしれませんが、またよろしくお願いします(*´-`)