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初詣について

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お世話になります。

来春、娘が高校受験です。
そこで、初詣について質問があります。

毎年1月にピアノコンペがあり、その入賞をお願いしに亀戸天神社に行っています。

また、これとは別に、氏神参りとして、近所の神社にも毎年行っています。

今年、上記にプラスして、受験の神様湯島天神にも行きたいと娘が言うのです。(ちなみにピアノコンペは今年はエントリーしませんでした)

近所の神社と湯島天神で良いのでは?と娘が言うのですが、亀戸は毎年行っていて、それなりにご利益をいただいているのに行かない年があって良いのか。

また、逆にあまりあちこち行くと、神様同士が喧嘩しないか。

神頼みに頼るわけではありませんが、やっぱりお参りには行っておきたいです。

しかも娘は試験本番を控えており、あまり出歩かせるのも風邪やインフルエンザが心配です。

お坊さんは、お寺、なのでしょうが…アドバイス、よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

カギは神仏に全てを任せることが出来るかどうか

 願い事を神仏にすることに対してのエピソードを紹介します。
 平泉に達谷窟(たっこくのいわや)という史跡があるのですが、かつてそこのお寺の息子さんに、正月に売られるお札についての効力を尋ねたことがあります。彼が言うには「効力はある。なぜかと言えば、人は弱い存在だから、悩みを何かに託すことによって、その悩みから開放されるのだ。その役割を担っているのがお札である。」とのことです。
 もう一つの話を紹介しましょう。これは私が大学時代に知り合った経済学部の大学院生の話です。彼は大切な試験がある時には、北野天満宮にお参りに行ったそうです。本当にお参りに行って効果があるか聞いたことがありますが、その時の彼の返答は、「効果はある。」というものでした。でも、彼の話によれば、試験が終わったら、「無事、試験が終わりました。」とお礼をしに、再度お参りに行かなければならないそうです。彼は現在、ある国立大学で教鞭をとっています。
 以上、二つの話を紹介しましたが、これらの話から言えることは、「全てを任せてしまえ。」ということであろうと思います。最初に紹介した達谷窟の話では、お札に悩みを任せなさい、ということです。次に紹介した大学院生の場合だと、試験の内容から試験の結果までの全てを天満宮に任せた、ということでしょう。結果がまだでていないうちにお礼に行くということはそういうことを意味していると思います。
 従って、神仏に願い事をするならば、全てを任せなければならないでしょう。お参りに行っておきながら、本当に大丈夫だろうか、などと迷うようでは、神仏はあなたに微笑んではくれないでしょう。
 以上、参考になさってくれれば幸いです。

※なお、私の宗派である浄土真宗では、このような願い事は行いません。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

私も祈っています

あなたがその願いがかなわなくてもガッカリしないことを。
仮に期待通りにならなくても、悪い反応をしてお嬢さんをセカンド・ガッカリさせないことを。 
お子さんが一番傷つくのは親の表情や態度に、です。
あなたは何がどうであっても包み込む、全力で受け止める、という事を約束しに神社にお参りされる【べき】でしょう。何時の時代も子供を傷つけてしまうのは親の過剰な期待、ですから。
そこに大人のブレーキをかけるべきではないでしょうか。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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