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嫌な言葉を受け取らない方法を知りたい

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こんにちは、いつも楽しく拝見しております。

お釈迦様の話について一つ質問です。

お釈迦様は、お釈迦様の前で悪態をついて罵られた言葉を、一つとして受け取らなかった、というお話がありますよね。
罵りや悪口、批判の言葉は、受け取らなければ、その言葉を言った人のものになる。
この考え方はとても良いなと思っておりまして、実践したいなと常々思っています。

ところが、つい先日、親族から、要約すると「あなたのやり方では駄目よ!」と嫌な批判を言われてしまいました。

そのやり方は、その時の親族には心配させまいと言っていない事情があったことや…私がその方法をする上で、過去親族本人から了承を得ていたことを、おそらく忘れていることがあるのも気づいていながら…
心から「受け取りたくない批判だ」と思い、でもあまり口には出さず、その時はそうかーそうなのー、とだけふんわりと抑えて堪えました。

そしてさっさと忘れて過去より現在のことを考えようとしても、つい心にモヤモヤと、その言葉が刺さったままになってしまいます。

お釈迦様のように、「相手の言葉を受け取らない」とするには実際にはどうしたらよかったのでしょうか。
いざ実践としたときの、「嫌な言葉を受け取らない方法」は、私のやり方は無意識に受け取ってしまったのでは、と後程ふと思い、方法がどうもわからなくなってしまいました。
経験豊かな皆さんが具体的に実施されていることなど、ありますでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

冷暖自知(れいなんじち)

お釈迦様の教えに関心を寄せてご質問いただきありがとうございます。

お釈迦様のおさとりは冷暖自知といい、「教えの説明」はできても「教えそのもの」には自ら触れるしかありません。
水の冷暖はその水に触れるものが自ら知ります。他のものは「この水は37℃です」とか「人肌程度です」と「冷暖の説明」はできても「冷暖そのもの」には本人が触れるしかありません。

説明では最後の最後のところは表現しきれないのですよね。自転車の乗り方を人に教えられないように…。

「相手の言葉を受け取らない」についてもお坊さんはその方法を色々と説明はできても、最後は自らの実践でこの境地を知るほかはないのだと思います。精進しましょう。

さて、言葉には意味があります。その意味を私たちは学習で知っています。言葉をなげかけられるとその意味に触れることになります。そしてその意味に触れるとそこからそれを自分で噛み砕いて解釈し反応が生じてきます。分別(ふんべつ)と言います。私たちには煩悩があり、絶えず漏れ出ていますから外部からの言葉という刺激に瞬時に煩悩が反応し分別が生じるのです。
あなたが「嫌な批判」と感じたそれです。本来のお釈迦様のおさとりは煩悩を滅しきり、その分別すら生じさせないものです。嫌とか好きとかいう評価が生まれ得ないということです。

そこからどうするかが分かれます。

私もお釈迦様と同じように煩悩を滅しきることができるという立場(聖道門)に立つのか、私は煩悩は滅しきれないがお釈迦様と同じようなおさとりの世界に生まれたいという願いをもってこの煩悩の身を生きる立場(浄土門)か、です。

私は後者の立場です。

ですから全自動的に言葉から分別を生むところまでは受け入れます。よってそこからまた分別し直すという選択をします。

相手の言葉を私は「良い・悪い」と分別したけれども、そもそもこの言葉は私が「良い・悪い」と分別するに関わらず相手のものなのだからどうして私が評価をする必要があるだろうかと。
そして相手は相手の分別をこの言葉に乗せているはずだが、私にはそれを知り得ず言葉の意味しか受け取れない。私が受け取るのは相手の言葉から生じた私の分別であって、相手の分別は受け取らない(受け取れない)。

それが私なりの「嫌な言葉(に乗せられた相手の分別)を受け取らない方法」の「説明」です。
ご参考まで。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

丁寧で、わかりやすいご説明ありがとうございます。

冷暖自知!ここで質問する前に、他の方はこの教えを、実生活ではどのように考えているのだろうと簡単に調べても見たものの、何も出て来なかった理由が分かったように感じました。

また、「嫌な批判」と感じていることが煩悩が反応した分別であること、そこから聖道門か浄土門かと、選択肢が存在すること。
お恥ずかしながら知らないことばかりで、まるで視界が広がるかのように、新しい考え方に触れ、一つ冷静になってあの時のことを考えられるようになりました。

ご参考までにと書かれたお話も、ありがとうございます。
いつか自覚しながら体感し、自分の言葉で説明できるようになりたいと、大切に何度も何度も、拝読しました。

実は今後、その親族と一時期寝食を共にしなくてはならず、なかなか憂鬱な気持ちを抱いていました。しかし、回答を戴いてからは、精進する場として考えれば、良い機会なのでは、と今では心穏やかです。
私なりに、お釈迦様の教えに自ら触れていこうと思います。

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