自分が出せない
初めまして。都内の大学に通っておりますトミーと申します。一年生です。
私は小中学校で過去にいじめを受け、それが解決してからも、周りと分かり合えず浮いてしまい、高校に通い始めてからはそんな自分を変えるために明るく振る舞うようになりました。
しかし、それから今になっても、人に弱みを見せたり、薄暗い自分の本性や悩みを人に打ち明けることが出来なくなってしまいました。
大学でも友人は多く、しかし、その中で感じるストレスや悲しみを、人に打ち明けることが出来ません。
否定され、そうでなくとも突き放され、1人になるのが恐ろしいのです。
いつも笑っているので、作り笑いばかり上手くなって、怒ることも泣くことも出来なくなってしまいました。
家族にすら自分の姿を偽り、やっと1人の時間を得て、その時に泣きたくなっても、涙が出なくなってしまいました。
悲しいことも腹立たしいこともたくさんあります。
しかし、もはやそれを表現する言葉も見つからず、ありのまま話すことも、素直にそうしたくても、しようとしても出来ないのです。
私は、人を信じて、助けを求めたいのです。僕の悲しみや怒りが晴らされなくとも、ただそばにいてほしいのです。
私はいったいどうやって人に助けを求めて、どうやって満たされたらいいのでしょうか。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
坊さんが吐き出す相手
こんにちは。いろんな事があったけれど、今は周りと何とか上手くやれている。かなりの努力があった事でしょう。大変でしたね。
全ての宗派が同じではありませんが、浄土宗の立場からお話しさせてください。
私たちの宗派、浄土宗は鎌倉時代に法然さんという方が立てられました。教科書的には「念仏を唱えれば、死後は極楽へ往生する」という程度の説明かと思うのですが、もちろんその一文で総て、ではないのです。その文章には含まれていない前提、人間観があるのです。
それは、「私たちはみな凡夫だ」という事。仏教では基本「煩悩を捨てなさい」と教えるのですが、「でもそれ、できない!」(と思う)人たちに向かっての「お念仏唱えなさい」なのです。
坊さんであっても、それは同じ。日々いろんな愚痴を抱えて生きています。
そこで私が教わった事は、「愚痴があったらご先祖様に言いなさい。仏様に愚痴りなさい。いくらでも、どんなひどい愚痴でも聞いてくれますよ。悪口でも、何でも良いのですよ。必ず総てを聞いて下さいますから。」というものです。否定され、突き放される可能性はゼロです。
これ、やってみると案外効きます。人間って、「聞いて欲しい・受け止めて欲しい」という「出す」欲求と、「教えて欲しい、聞きたい」という「入れる欲求」は別物のようです。そして意外と、出したい生き物のようです。ある意味、朝のお勤めって、お経と共に「出す」ことをしているのかな、とさえ思います。
なので、もしもあなたの家にお仏壇があれば、その仏様やご先祖様に向かって愚痴垂れるのがベストですが、それが叶わないようでしたら、ここhasunohaへどうぞ。具体的な事柄に、多分具体的な見方やり方で答えてくださる知恵を持った方が、たくさんおられますよ。
田舎はいいですよ。
こんにちは。
田舎暮らしの僧侶です。
僕のイメージだと、
都会は何かになりたくている人が多い。
人よりも何かをするには、
自分を出さなきゃいけない。
だけど、うちの近所のおばちゃんたちは、
いい天気やね。
今日は暖かいね。
虹きれいやね。
そんな会話で関係性が成り立ちます。
自己PRしなくても、自分ばかり気にしなくても、人と人がコミュニケーションとれる場はあります。
大学にいる数年の間は、今の生活に折り合いつけることが必要ですが、
その先の進路を考えるとき、あるいは長期休暇の時、田舎を旅するのも悪くないですよ。
10人の友より 1人の親友 1人の親友より目前の真実
ちやほやされたり、表面的にワイワイやっているだけのお祭りづきあいはぶっちゃけ中身がないものです。
人間最終的には一対一。
さらには相手に対してアレコレ思ている自分。
さらには相手に対してアレコレ思う自分も通り越して、ちゃんとした人付き合い。
本当に一対一でキャラづくりなく、素の自分で付き合ってみてください。
演じているうちは苦しいものです。
親友といっても、私も年に一度会う程度です。
親友よりも大切なのは、自分が自分に向き合い物事や人間関係、自分の置かれている境遇にアレコレ自分の思いを重ねなくなることです。
自分はだめだとか、孤独だとか、こんなことでどうしよう、と思うのは絶対に自分です。
それは自分の思いなのです。
その思いがいつも自分を苦しめていることを若いうちに見抜いてください。
じいさま婆様になってからでは遅いのですよ、凝り固まっちゃって。
若い繊細な感性ならばこそ、自分の思いに敏感に気づけるはずです。
何か、そうだなと思われることがあったら、他の記事を読んでみてください。
「どうやって」という思考をやめる
トミーさん
辛い状況ですね。
小中学校時代、いじめを受け
それが解決してからも、周りと分かり合えず浮いてしまった事から
明るく振る舞おうとした。
そしたら今度は明るく振る舞おうとするばかりに
人に弱みを見せたり、薄暗い自分の本性や悩みを
人に打ち明けることが出来なくなってしまった。
トミーさんの経緯を聞く限り
明るく振る舞わざるを得なかったのだと思います。
そして
“私はいったいどうやって人に助けを求めて、どうやって満たされたらいいのでしょうか。“
とのことですが
私が思うのは
この「どうやって」という思考をやめることではないかと思います。
トミーさんが苦しまれている理由を紐解いていくと
明るく振る舞おうとしているため
本音が言えず苦しまれている
なぜ明るく振る舞おうとしているのか
本音を言えば
“否定され、そうでなくとも突き放され、1人になるのが恐ろしいのです。”
と思っているからです。
トミーさんは1人になりたくなくて
明るく振る舞っている
そして友人は多くいるが
誰とも心を通わすことが出来ずにいる。
この逆説的な事実に気付くことです。
生活していれば
楽しい時間もあれば、
辛い時間もあるのですから
何時も明るくなくていいのです。
そして
本当に感じていることを伝えたら
否定し、突き放す人もいれば
頷いて、受けとめてくれる人もいるのです。
友人は多くなくていいのです。
本音を伝えて受けとめてくれる人と
友人になればいいのです。
明るく振る舞わずに
思っていること、感じていることを
素直に伝えることだと思います。
ご自分を見失ってしまっているのでしょう
自分とは何か。
友達を失いたくない。という思いを優先した生活をしすぎ、自分とは何かを見失い、思いを優先した生き方になってしまっているのでしょう。
友達は、いなければならないものではない。人は人である。それぞれの生き方がある。そこに善悪はない。
自分というのは、何か、静かな場所で自分を見つめてみてください。目で見えた木々や空。鼻からかおる、土のにおい、耳から聞こえた、鳥の声、風の音、生活音など。そして皮膚で感じたもの温度など。
すべてあなたの体を通して感じた事実。
そこに考えや思いはつけたされません。生まれて今までずっと知らず知らずのうちに感じながら生きてきたものでしょう。そこに、友達がどうとか、一人がさみしいだとかそんな考えは付け足されていません。あなたの頭の中でかってに考えている妄想にすぎないことにきづくはずです。
もし、寂しいと感じたら、それはまだ事実でなく思いで物事を見ているからでしょう。事実に生きれば、きっとあなたは救われるはず。素直に生きることができます。それが仏道を学ぶことです。