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夫の借金発覚により絶望感。子供のために前を向きたい

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先日回答頂いたばかりで恐縮ですが、再びお世話になります。

夫の婚前からの借金が発覚し、対策するため補填しようとしたら更に膨れ上がったことがわかりました。

婚前からもお金が払えなくなり貸したことがあります。返ってはきましたのでどうにか返せる能力はあると思い結婚し子供を産みました。

ところが産後間もない頃から生活費が入らず私が赤字分も含め払っていました。
もちろんどんどん赤字になり私の借金もできてしまい、
夫のカードローンの審査落ちから借金の金額を調べさせたら知らないうちに限度額が上がってて同時に合計の借金の額も上がってたとのこと。100万を越す金額になっていました。

目の前が真っ暗とは本当にこのことを言うのだというのを体感しました。
目の前で泣きましたしこんなことなら死にたいと絶望感も正直に言いました。

クレジットカードもキャッシュカードも全部置いて行くことを了承したので反省はしているようです。

もともと私は怒れないタイプです。
しかし今回ばかりは夫に痛い目にあって頂きたい。明日の昼ごはんをも買えない苦労を味わってもらいたいと思わざるを得ません。怒りと悲しみと虚無感がひどいです。
そして、自分と子供のお金は守るため今回の件のために私のお金は貸しませんしいざという時の為にと思っていた積み立ても出したくありません。離婚だって視野に入れなきゃと思いました。自分自身を奮い立たさなければやってられません。

うまく、前に向く力にしたいのです。
夫にはしっかりと落ち込んで凹んで反省頂いた上で私は絶対完済してやる、と前を向く力にしたいのです。半ば躁状態なのかもしれません。
だからといって、怒るのに疲れてまぁなんとかなるかぁと何事もなかったかのやうに日常に戻っていくのも嫌なのです。

こんな感じでなんかもう支離滅裂です。気持ちの整理をお手伝い頂けませんでしょうか。どのように、日常を過ごしていけばこの歪な気持ちを穏やかにできるでしょうか。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

とりあえず実家に帰りましょう

「愛してる!」
「証明して!」
というCMがよく流れています。
あれ、なんのCMでしたかね。
オスは言葉を羽のように飾り立ててメスの気を引こうとウソ800の鳥がいます。
最初だけ。釣った魚に餌やらないということばは昔から言われてきています。
ですが、おしどり夫婦はお互いにいいことを提供しあって相互に支え合っています。
実家にはかくかくしかじかで旦那がこうなったということで実家シェルターに潜伏しましょう。
ダンナには自己破産なりなんなりでチャラにして人生やり直して世の中ウマい話はないということを悟ってもらってスタートアゲイン。
「見捨てるわけではありません」と。
「生活していくためにも、この子を迎えに来ていただくためにも、言葉よりも行動で愛を証明してください。」という含みを持たせた手紙でも置いて出ていくなどしたほうがお子様の為にも良いのではないでしょうか。
大丈夫っす。
ダンナのことはダンナの事。
あなたはあなたをやればいいんス。
奥さんが一時的いない方が仕事に専念できる可能性もあります。
あなたは家事・育児に専念できます。
離婚してもいいですし、一時的に実家に援助してもらって住まわせてもらって立て直していくというのもありでしょう。
見極め、見届け、見抜きを大事にしてください。
おススメ案
①一旦実家に避難
②旦那さんを遠隔はげまし
③結果、成果をみまもる
④ダメそうなら別れの方向へ
⑤ダメならシングルマザー応援王国島根県に移住

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事が遅れ、申し訳ありません。

一週間ほどではありますが実家に帰ってきました。目の前にいないだけで、ずいぶん気持ちは違うように思えます。

今後も嫌になっては実家に戻るという選択があるだけで、救われました。

夫と連絡をとればまだまだトゲトゲした気持ちになります、恨み言もどんどんでてきますが、言ったところで解決できるわけでもなし一度精神科にかかった上で淡々と生活に戻って行こうと思います。

自分のことをすればいい、というお言葉がとても染み込みました。
返すまでは地獄の日々を送らなければならないと思っていました。
普通でいいのかと、気がつかせて頂きました。

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